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旅のスケッチ by Fujiwara

今までに海外旅行をして見たこと、感じたことを時系列とは関係なく書きつづったもの〜


8.「変貌する中国:東北部」(2001.8.10)

 2008年のオリンピックは北京に決定。北京五輪のプロモーションビデオは高層ビル群と伝統的な中国の文化を融合させ、バックには「炎のランナー」の音楽が流れ、スピーディで完成度の高い作品だった。いくら身びいきの目で見ても大阪はその点でも負けていた。吉本の俳優さんは確かにがんばっていたけど、オリンピック委員会へのアピールという点では疑問が残る。眠れる獅子と言われて久しいが、経済面も含めて中国がついに世界舞台の主要な位置を占めてきた感がある。ここ数年の中国の変貌はすさまじいという噂だ。都市部に集中しているようだが、高層ビルの林立に工場地帯。映像だけではシリコンバレーかと勘違いするぐらい。私が初めて中国に足を踏み入れたのは1987年。まだまだ国営企業が幅をきかせており、日本からの観光客も少なく、ある意味ではおおらかな中国らしさも残っていた時代である。
 1987年8月北京空港に降り立った。中国旅行の詳しい旅行書もまだ少なく、どんな旅になるのか予想できなかった。個人旅行でガイドと運転手付きだったが費用はそれほど高くなかった。かなり人件費が安かったからできたことだ。中国というとあふれる自転車通勤が有名だったが、実際にその通りでまだ車は少なかった。一体どんな車に乗せられるのか、もしかして人力車みたいのじゃないかと一抹の不安があったのだが、空港に迎えに来てくれたのはクラウンだった。通訳さんは北京大学を出て教養も品もある紳士だった。当時は通訳は給与面を含めて大変いい職業のようで、その時に会った通訳さん達はみんなどう見ても、後年の通訳さんよりも質がよかった。
 北京の観光を簡単にすませてから、東北部へと列車で向かった。長春、吉林、瀋陽と旧満州国の都市を訪れた。街並みには日本統治時代の遺物がいろんな形で存在していた。市内にはホテル、大学、鉄道駅、官舎など当時の建物が点在しており、日本人との関係を思い出させる。かつて東北部に住んでいた日本人が昔を懐かしがってここを訪れることがままあるようだが、中国人にとってその姿はどう映るのだろうか。実際に我々が中国を訪れて、個人的に戦争など過去の問題を持ち出されたりすることはなかったが、おそらく言わないけど忘れないというスタンスなのだろう。まだまだ日本との生活格差は大きく、ビデオを回していると遠巻きに人垣ができたりした。日本人とわかるととにかく物を売ろうとする行商人もいたし、日本語の勉強中なのだろう日本語で話しかけてくる若者もいた。サービスという概念はなく、買い物をしても店員さんに愛想はなく、仲間とのおしゃべりを遮られたような不快感さえ漂わせることがあった。東北部の風景はやはり広大でまたどことなく懐かしさがあった。同じ東アジアという共通点もあり、中国からの文化の伝播もあるからだろう。さすがに「文字を残す国」だけあって、あちこちに碑文があった。毛沢東やら康煕帝やら歴史上の人物のものが沢山残っている。当時は人々も含めてゆっくりと時間が流れているような感じもした。その後の経済成長を通じて市場主義が台頭し、TVで見る中国はとにかく忙しそうだ。あの頃の中国ならばまた訪れてみたいのだが、激しい変化を見聞きするにつけ今は行くのに少し気がひけている。


7. 「食は台湾」(2001.8.8)

 1991年10月、義妹と2人で台湾のんびり4泊の旅に出かけた。当時から中台問題は久しいが、アジア諸国の中でも最も親日的といってもいい国の1つである。実際に台湾のホスピタリティはとても心地よいものだった。今や世界のパソコン業界にはなくてはならない所だが、その頃から台北は活気のある都会だった。
 世界中で華僑は活躍し、ほとんどの国に中華街があるほど中華料理は広まっているが、台湾での食も思い出深い。台北は高級ホテルをはじめとして高層ビルが多いが、大通りの裏には屋台が並ぶ。決して整備された統一感はなく、むしろごちゃごちゃしてブレンドされた都会。それが台北の姿のように思える。ちょっと怖いのは、人間よりも車優先のところ(法律はどうなってるのかわからないが)。大通りを渡るときには根性がいる。信号はあまりなかったように記憶している。車の流れも多いのでじっとしていてはいつまでたっても渡れない。現地の人はちょっとしたスキに渡りかけ、それを見て車が自然に止まるという感じ。止まることを予想・期待して渡っているわけで、最初はそれになじめなかった。私たちは現地の人の間に挟まって渡るという作戦をとり、何とか道を渡れるようになったが、帰国後大阪の車のマナーのよさに感動した。
 治安はいいところなので、日本程度に自由に行動できる。屋台見物は楽しく、活気に溢れた屋台に人々が溢れていた。特に色鮮やかな果物を山積みにしている屋台には、あれもこれもと手を伸ばしたくなる。屋台、ホテルのレストラン、街の食堂でも食事をしたが、どこもおいしかった。中華って油を使った料理が多いが、どれも油っぽく感じない。個人的には香港よりも台湾の中華の方がおいしかった。ホテルも快適だし、食べてゆっくり過ごしたい人には台湾はお勧め。
 食べることばかりではなく、台湾にも見所はもちろんある。世界4大博物館の1つ「故宮博物館」は中国4000年の歴史がぎっしり。歴史好きにはまる1日でも足りないぐらい見逃せない。すばらしい技術に見事な書などため息が出るほどだ。蒋介石さんもよくこれだけ運んできたものだと感動する。
 台湾ではネガティブな経験がある。義妹は私と違ってある種の勘が働く人で「お姉さん、あの2人おかしい・・・」と。目を向けると日本人のおじさんと現地の若い女性。どうもおじさんが誘っているよう。また宿泊したホテルでも2人でいるときに、卑猥なことを言ってきた日本人のおじさんがいた。さらには帰りの機中の後ろの席で、大きな声で現地の女性との夜の体験を話しているおじさん群。私が専制君主なら飛行機から落としてやりたいような衝動を覚えた。こういう恥知らずなおじさんに比べれば、街でナンパしてる若者ってよほどかわいい。台湾のおいしい体験と対照的な負のツアーがあることも知った旅だった。


6. 「ニュージーランド南島」(2001.6.6)
 
 真冬の日本を脱出し、夏のニュージーランドに向かったのは今年2月上旬。長期休暇の時期ではなかったが、季節のいいところは人気があるようでほぼ満席でのフライトだった。北島のウェリントンからフェリーで南島のピクトンに渡り、そこから列車でクライストチャーチ、ダニーデン、インヴァーカーギルを訪れ、最後にクィーンズタウンに滞在した。
 クライストチャーチとクィーンズタウンは観光地。日本人をはじめとして多くの観光客にお目にかかれた。かつてはアジア人といえば日本人の旅行客が圧倒的に多かったように思うが、最近ではシンガポール、韓国、台湾、中国大陸からの観光客が多い。アジア各国の生活レベルもあがってきたんだと実感する。彼らも日本製のカメラやビデオを持っていて、改めて日本製品が世界レベルなんだと感じる。両方ともに清潔で公園も多く美しい。観光地といっても人口密度はそれほど多くないので、人混みのストレスを感じずにゆっくりと楽しめる。クィーンズタウンはジェットボートやバンジージャンプ、気球などアウトドアも人気なので勇気のある人はどうぞ。
 ダニーデン、インヴァーカーギルは日本人は少なかった。ここも特に何があるというわけではないが、公園は美しいし、博物館も楽しめる。こういう公共の施設の充実ぶりは日本も見習いたいもの。
 今回の旅も列車移動をしたが、列車便は1日1本程度でごくまれで、観光列車ともいえる。ニュージーランドは道路は整備されていて、車が左側通行なので、特にこだわりがなければレンタカーを使うのが制約もなく一番楽な旅となるだろう。道路沿いのモーテル設備も充実していて、当日予約で十分そうだった。次回行くことがあればレンタカーも使いたい。自然を楽しみゆったりとすごすのがニュージーランドの醍醐味。日本の喧噪を離れてリフレッシュするには最高のところだろう。我々旅人にとっては、安全で美しくて魅力的な国だが、ニュージーランド人の友人によると「少々退屈」な国らしい。日本のようなハイテク産業なく、若者にとって刺激が少ないと。隣の芝生は青いのかもしれない。
 今回の旅行の特筆すべきことは、ホテルの予約をすべてインターネットで行ったことだ。ニュージーランドにはB&B、アパートメントなど様々な宿泊施設が整っている。ツアー客を受け入れる大規模ホテルよりも値段が安いB&Bとキッチン・リビング・ベッドルーム付きのアパートを今回は利用した。B&Bは朝食付きで1泊2人で5000円程度、2ベッドルーム・リビング・キッチン付きのかなり豪華なアパートが1泊1万程度と設備に比べて値段は予想以上に安かった。インターネットの旅行サイトを調べe-mailで予約を入れたが、対応もすばやくきちんと予約ができていた。確認のためにe-mailはプリントアウトして持っていったのだが、それをフロントに出すだけでややこしい説明もいらず便利だった。外国のホテル予約はちょっと不安もあるが、今回の経験でまず大丈夫だと確信。今後もできるところでは自分で予約しようと思った。みなさんにもトライすることお勧めです。


5. 「オーストラリア・インディアンパシフィック号の旅」(2001.4.26)

 1995年12月上旬、オーストラリアのインディアンパシフィック号の旅に出かけた。これはパース〜シドニー間約4000kmを3泊4日64時間で結ぶ長距離列車である。コンパートメントで簡単なシャワー・トイレも備え付けでまずまずの居住空間を提供している。日程は9日でパースとシドニーに2泊するが、メインは列車の旅であった。
 シドニーからパースへ飛び、そこから列車に乗り込む。豪華列車と言われているが、翌年のオリエント・エクスプレスと比べるとかなりカジュアル。フォーマルを用意する必要はなく、食堂もサロンカーでもカジュアルスタイルでOK。夕食はジーンズ、サンダルなどは禁だったように思うが、オーストラリアのイメージから想像される通り堅苦しい感じは全然なかった。世界各国から来た観光客も気さくで、のんびり過ごしていた。
 この列車は車内での快適さもおすすめだが、何よりも車窓がすばらしい。広大なオーストラリア大陸の自然を満喫することができる。景色の変化スピードは遅く、半日ぐらい家1軒も目にしないこともあった。砂漠のような風景、はたまた緑の草原。多くの野生のカンガルーも目にした。カンガルー軍団の中を列車が走り抜けていき、カンガルーの方が列車や我々を見物しているようにも見えた。夜空もあふれるほどの星が降ってくるように美しい。ぼーっと眺めているだけで時間が静かに流れていく。今の流行りの「癒し」の風景である。
 乗りっぱなしでは長すぎる旅なので、途中の駅で下車して休憩したりイベントがあったりもした。車中の食事もおいしく、ゆったりと楽しく過ごすことができたが、正直3泊4日は私には長すぎた。4日目の朝は食欲なく、朝食は食べられなかった。シドニーで列車を降りてもまだ体が揺れていた。この症状はすぐに回復はしたが・・・。シドニーはオリンピックを控えて街は活気があり、12月でクリスマスディスプレイがしてあった。が、さすがに夏のクリスマスは物珍しかった。サンタさんはやはりあのサンタのスタイルで街にいたが何とも暑そうで、クリスマスは冬の方が似合うなという気がした。
 治安もよく、おおらかなオーストラリア。忙しい日本の生活を忘れて、ゆったりするにはもってこい。またいつの日かチャンスがあればインディアン・パシフィックに乗ってみたいもの。昼は好きな本を読みながら、夜は星空を眺めながら列車の旅を楽しみたい。


4. 「イースタン&オリエントエクスプレスの旅」(2001.3.9)

 雪の中に立ち往生する列車の中で起きた謎の殺人事件。アガサ・クリスティ作の映画「オリエント急行殺人事件」はストーリー展開の奇抜さだけでなく、オリエント急行という豪華列車が印象的だった。あんな列車に乗ってみたいが、少々気後れする。そんな気持ちになった人も少なからずいるのではないだろうか。
 イースタン&オリエントエクスプレスという列車がある。タイ・バンコクからシンガポールまで2泊3日で走り、ヨーロッパのオリエントエクスプレスと同じ車両・同じサービスが提供されるものである。これなら距離も近いし敷居も低く感じて申し込みをすることにした。この列車はすべて指定であり、事前の予約が必要である。
 1996年12月末に相方(旦那です)とバンコクへと飛び、そこからオリエントエクスプレスに乗り込んだ。列車はすべてコンパートメントタイプで、ソファ・テーブル・トイレ・シャワーが付いている。また専属のアテンダントがお世話をしてくれ、アフタヌーンティーを運んでくれたりと至れり尽くせり。本家ヨーロッパのオリエント急行では、アテンダントの給料よりも客から貰うチップの方がはるかに多かったらしく、チップは出さなければならないということは噂でもまた現場の雰囲気からも察知できた。しかしいつどのくらい渡せばいいのか検討もつかず、結局3日で3回渡したがそれでよかったのかどうかもわからない。アテンダントは美形のタイ人の青年で、「マダーム・・・」と話しかけてくれたが、どうもその敬称には最後まで慣れず気恥ずかしい気持ちがした。乗務員の言葉は基本的に英語、客は西欧人が多数で、日本人は数名程度見かけただけだった。
 車中の洋装はというと、日中はラフな格好でOK。ただし、夜になると男性は最低ジャケット、女性はワンピースで、ジーンズ類は禁止。食事は専用レストランカーでフランス料理のフルコース、その後サロンカーでお酒を飲み音楽を聞いたり、ダンスをしたり。私はワンピースを1枚持っていっただけで(荷物多いの嫌なので)、一番貧弱だったかもしれない。欧米系の人は昼間はビーチにでも行くようなラフな格好をしているが、夜になるとタキシードとイブニングでぴしっと決めてくる。そのスタイルも着こなしもお見事と思わず見とれていた。やはりパーティー慣れしている者とそうでないものには差があるものだ。
 ヨーロッパよりもカジュアルと言われるイースタン&オリエントエクスプレスだが、日本にはないタイプの世界有数の豪華列車であることには間違いない。非日常的な優雅な雰囲気とサービスを味わうことができる。2泊3日は長い感じがするが、途中で停車して観光時間ももうけているし、車窓の風景も目新しくて飽きることはない。ただ、線路の保線状態がよくないのか列車は相当揺れるので、揺れに弱い人だと夜寝にくいかもしれない。終着駅のシンガポールで降り2泊して帰国した。車中では多少の堅苦しさも感じていたのか、シンガポールでの食事はなおさらおいしかった。オリエントエクスプレスの旅は今まで経験したことのないタイプの贅沢さを味わうことができた。その特別の快適さのために、往復の航空料金に匹敵する片道運賃が必要であったが・・・。


3. 「旅の必須アイテム」(2001.2.16)
 
 私の旅の特徴といえば、持っていく荷物の少ないことらしい。これは旅先でもよく指摘されること。「荷物はそれだけ!?」と、何度聞かれたことだろう。海外旅行に行く人々の多くは大きなスーツケースを持っているのが定番。一体何故そんなに多くの荷物が必要なのか。私の場合、国内一泊旅行でも海外旅行でも持っていく荷物の量はほとんど変わらない。旅行鞄はいつも同じ物を使っている。もっと沢山持ってくればよかったと後悔したことはない。パスポート、カード、現金以外には必要最低限のものでいいのだ。
 荷物が少ないデメリットを感じたことはないが、メリットは沢山ある。何と言ってもフットワークが軽くなる。搭乗のときにはすべて荷物は持ち込めるから、ターンテーブルで自分の荷物を延々と待つ必要もないし、時折ある荷物の紛失なども経験しなくてすむ。帰国の際には、荷物の受け取りを待っている人々を尻目に一直線に税関に行ける。税関でも小さいバッグを見て、中を開けることさえせずにすぐに通してくれる。飛行機を降りてから最終の税関通過まで5分ほどと言っても過言ではない。
 では、どんな旅の道具を持っていくかというと。まず、膝の上に乗せられるぐらいの小型のボストンバッグ。最近は軽量タイプで丈夫のものが出回っており、これは便利。この中に下着類2組、セーター・トレーナーなどの衣類2組程度。ショールは必ず持っていく。冬だけでなく、夏でもクーラーが効きすぎて寒いところがあるので重宝する。洗面用具、傘、化粧品、薬、筆記用具、濡れティッシュなどを準備。長時間のフライトは足が疲れるしホテルでも使える携帯用のスリッパ。これらを大小のポーチに入れてからバッグに詰める。あとは財布やパスポートなどを入れるショルダーバッグ。
 海外に行くとなると、あれこれ心配になって余分に荷造りしてしまうのだろうが、要は気の持ちよう。いざとなればお金を出して買えばいい。削れるものはできるだけ削ろう。迷ったら持っていかないようにすれば、びっくりするぐらい荷物は減っているだろう。最後に手のかからない同行者も必須。旅先で人の洗濯なんてしたくないもの。自分のことは自分でやってくれる人と旅をするのが一番だ。


2. ニューヨーク編 (2000.12.20)

 前回ワシントン編を書いていた頃、新大統領は接戦だろうと予想していたが、まさか決着までにこれほどの時間がかかるとは思わなかった。決定までのプロセスでアメリカの持ついろんな側面が顕在化してきた。選挙制度の矛盾やいい加減な面などアメリカの民主主義って何だろうと思わせられる変な点も多く目に付いた。ただ、一方で決めるプロセスは明らかにして、それに沿って進むというある種の筋の通し方は見習うべきところがあるかもしれない。しかし、日本の二世議員も問題視されるが、ブッシュ新大統領も家族の多大なる応援をもらいスタッフも父からの譲り受けが目立つ。湾岸戦争のスタッフを使うなんて新しさに欠けると思うのだけど、さて新大統領の手腕は如何。
 
 本編に戻ると、ワシントンから飛行機で1時間少々でニューヨークに到着。世界経済の中心地というだけあり、写真やTV画面などでは見ていたがそれよりもマンハッタンは大きかった。田舎物丸出しで最初はビルを見上げながら歩いた。治安の不安はあったが、当時は好景気なうえにジュリアーニ市長の政策のために、ずいぶん治安はよくなり街もきれいだった。セントラルパークでは昼寝をしている人もいてのどかな日本の公園のようにも見えた。もっとも広大であったが。
 ここニューヨークも美術館と博物館の宝庫。メトロポリタン美術館をはじめとして、世界の至宝が数多く展示してあるところが目白押し。こうなるとやはり日本の都市との質の差を感じる。市民が文化に触れる機会が違いすぎる。1週間ぐらい滞在しても美術好きには楽しめるだろう。
 「ニューヨークでは英語が通じない」アメリカに行く前に友人から聞いたせりふ。どういうことだろうかと思ったが、たとえばタクシーの運転手さん。アラブ系の人が多いので美術館の名前とか言ってもわからない。通りのNoを言うことで目的地に到達できる。レストランのウェイトレスもヒスパニックなのかろくに英語が通じず、マネージャーが来て事足りる。人種のるつぼで世界中から人が集まってきているのを実感した。日本料理店はたくさんあり、ここは日本人が経営していることが多いのでスタッフも日本人か日本語がある程度できる人ばかり。噂通り和食はおいしく、言葉の問題もないから日本料理店を利用するのもお奨めである。
 ニューヨークってエネルギーがあふれたところだから一番好き!という人もいるが、確かにエネルギッシュで多種多様な人が集まっていて魅力的な所だった。もうちょっと若ければ住みついてみたい。特に若い人には行ってみてもらいたいところである。


1. ワシントンDC編

 ワシントンを訪れたのは1999年5月、ポトマック川の桜並木の見頃は終わっていた。それでも緑溢れた街並みは十分美しく、建物の高さや道路の統一性など景観にも気配りされた都市だった。
 ここの産業はといえば観光ではないかと思われるぐらい観光客が多かった。私などが歩いていても道をたずねられることがあったりと、全米からのお上りさん、海外からの旅行者が入り交じってそれこそ人種のるつぼのようだった。観光コースは治安もよく昼間ならば女性一人で歩いても全く問題はない。誰もが見に行くホワイトハウスはTVで見たとおりというかほとんど想像通りだった。ブッシュかゴアか。次の主はどちらだろう・・・。結果がわかるのもあと数日後だが、これほどきわどい勝負も記憶がない。
 美術館、博物館は質・量ともに見事だった。しかも無料。特にナショナル・ギャラリーは好きなら2日ぐらい費やしてもいいぐらい。ダ・ビンチから印象派画家など教科書や画集で見たような絵がごろごろあった。これらの作品は主に個人のコレクターからの寄贈品だという。これほどの名画を買い集めるとはどれほどの富豪だったのか想像もつかない。ま、バブル時代高値で絵を買いあさった一部悪趣味な日本人経営者もいたが、それに比べたらよほど後世のためになっていると言えよう。
 ある美術館で窓辺から外を眺めていたら陽気な警備のおにいさんが「いい日だね!」とにこやかに話しかけてきた(と思う)。少し世間話をしてから、私は持っていた地図を見せてどこが見所かを聞いた。警備員さんは地図を見て、そこに書かれている文字を指で追って発音しようとしたがうまくいかなかった。「この人字が読めないんだ」としばらくして気づいた。アメリカでは基礎的な読み書きの能力不足を指摘されているが、教育問題はどの国でも深刻なものを抱えているようだ。
 世界の政治の中心地ワシントンは広々として落ち着いた清潔な都市だった。ホワイトハウス、ペンタゴンなどの政府機関も一部は一般公開し、国民との距離を近づけようとする意図は見えた。警備自体もソフトで町中に警察官の姿はほとんどなかったし、銃の国の怖さを感じることもなかった。もっとも短期間で限定された場所しか行ってないのでそう感じるのかもしれない。食べ物以外の点では十分に満足できるワシントンだった。