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終焉への伴走 by Fukudome
〜余命2年を切るといわれ踏み切った母との同居も4年。「喜ぶべき」なのだろうが・・・〜


終焉への伴走E (2002.5.23)

好むと好まないとに関わらす、人は皆「名前」持っているものです。大人になるにしたがって名前で呼ばれることが少なくなっていき、子どもでも生まれようものなら、女性であればいきなり『お母さん』『ママ』『母ちゃん』等々、呼ばれることになります。当然その女性の母である人は『おばあちゃん』などと呼ばれることになります。しかしそれは子どもを通してのことであり、本来の関係は『~ちゃん』とか『~さん』また、『お母さん』と呼ばれる関係にあるわけです。

離れて暮らしている頃、私も母のことを『お母さん』もしくはたまには幼い頃のままの『お母ちゃん』などと呼んでいました。母も同じで私のことを名前で呼んでいました。

ところが同居するようになり、その期間が長くなるにつれて『ばあちゃん』などと面と向かって言うようになっていました。当然母も私のことを名前でなく『お母さん』と呼びます。子どもがいてもいなくても、です。

子どもがいる時に『お母さん』『おばあちゃん』という呼び名は、違和感なく聞けたりいえたりするわけですが、これが一対一の関係の時になると、引っ掛かりを感じてしまいます。
引っ掛かりを感じながら、同居期間が長くなるにつれて『お母さん』と母に対して呼べなくなっている自分を発見します。なぜなのだろう?なぜ母を『お母さん』と呼べないのだろう?

『母』は頼れる存在であったはずなのに、いつのまにか頼られている。母としての子への思いやり、子としての母への思いやり、そういったものが『同居』『身体能力の衰え』の中で欠落していっているのでしょうか。

私は母から『お母さん』と子どものいない時に呼ばれるたびに、最近腹立たしさを感じます。心の中で『私はあなたの娘であって、お母さんではない』と叫んでいる私がいます。逆に母も『私はあなたのおばあさんではない』といっているかもしれません。

夫から夫婦の会話の時、たまに『お母さん』など呼ばれようものなら、パンチを入れそうになります。私はあなたの母じゃない、ですから。

そんなこだわりのある私なら、母を母として呼ぶべきではないか?呼び名は、その人の尊厳に関わることかもしれないのですから。そんなことに悶々としている私がいます。


終焉への伴走D (2002.4.6)

親と同居するというのは、親の性格・子の性格によるかもしれませんが、不幸なことではないでしょうか。

同居して毎日顔をつき合わせていると、お互い文句が出てきます。幼い頃と違って、大人になると自分の意見もありますし、自分の生活スタイルもあります。もちろん、親も独自の考えをもっていますし、自分の生活スタイルもあります。それは、ともすれば相容れないものではないかと思います。

親は自分の思うように子どもが動いてくれるもの、と幼い頃のことが頭から離れず、子はいいかげんにしてよ、と思います。そうすると、日常のなんでもないことにまで、引っ掛かりを覚えるようになり、腹立たしくなってくるのです。そしてつっけんどんになります。離れて暮らしていて、同じ事を聞いたとすると、「そうだね」「わかるわかる」と同意したり同情したりできることが、「もう、分りきったことを」「同じことを繰り返さないで」となってしまいます。

離れて暮らしていると、たまに会うため、衰えていく姿がよく分ります。だから、ああ年とったなあ、大変だろうな、手伝ってあげることがあればしてあげよう、と思えます。ところが同居していると、衰えていく姿は毎日見ているもので余り気がつかず、というか気にも止まらず、もうちょっとサッサとしてよ!口ばっかり達者で文句ばっかり言っているのならもう自分の部屋に引っ込んでおいてよ!となってしまいます。

この調子でいけば、終焉を迎えた時、私は泣けるでしょうか?悲しさと同時に、ホッとした気分を味わうのではないでしょうか?これは、不幸なことではないでしょうか?

9年程前、おばがなくなりました。おばには2人の娘がいて、妹家族と同居していました。お葬式の当日、姉のほうは母であるおばの亡骸に取りすがって、号泣しているといっていいほどの嘆き方で、泣いていました。でも、妹のほうは、淡々と、式を進めているように見えました。その時は、少し不思議に思えたことを、覚えています。

でも、今なら納得いきます。同居していた妹のほうは、感情的にも肉体的にもいろいろと「しんどい」思いをしてきたのでしょう。悲しさもある反面、ホッとしていたのかもしれません。それが、悲しむよりも淡々と事を進める態度になっていたのでしょう。

親が親であり、子が子であり続けられるのは、離れて暮らしたまに会う関係であればこそ続けられるのかもしれません。そんなことを思う、今日この頃です。


終焉への伴走C (2002.3.7)

親は子どもに対して感情的になることもあれば、親の都合や理論でもって接することがほとんどではないでしょうか。たとえその対応が客観的に見たとき、理不尽なものであることがあったとしても…

祖母は新聞もしっかり読み、テレビも良く見ていますから、子どもの育て方や対応の仕方についての記事や番組から啓蒙を受けています。子どもを怒っていると、部屋から出てきて、私に注意します。子どもの前で注意される私はたまったものではありません。それを、夫にも同じようにします。子どもはよく見ていますから、分が悪くなるとこれ見よがしに泣き叫びます。その泣き声を聞くと、祖母の出番です。前後の経緯にはめもくれず、その「泣き叫んでいる」ということに関して、親の糾弾をはじめるのです。子どもの前で…

次子に対しては全面的にかばいます。ところが、長女に対してはそうでもないのです。私が怒っていると、同じように怒っていることもあり、二人から怒られたらかわいそうでしょうが、と思わず心の中でつぶやいてしまいます。

小学校に入った長女と、勉強か何かそれに類したことで「しなさい」「できない!」といった言い争いになったことがあります。怒った声と泣き声にたまりかねた祖母が、部屋から出てきました。いつもの言い争い、と弟は静かに無関心に遊んでいました。口をはさもうとしかけた祖母に「ばあちゃん、この本面白いからばあちゃんのお部屋で一緒に見よ」と、弟がその場を連れ出してしまいました。母と姉との争いは「触らぬ神にたたりなし」と決め込んだのか、姉が祖母にまで怒られるのはかわいそうだと思ったのか…年端は行かなくとも子どもはよく見ています。

面白いのは、いつもかばってもらっている祖母に「おばあちゃんは関係ないから、黙ってて!」と言ったことです。生活の基本となるところで、絶対にいけないことを叱っている時でした。怒られているのをかばうように「もう、せえへんよな」と声をかけたのです。そうすると、間髪をいれず先の言葉がでたのです。その言外に『これは、母さんと僕との問題で、ばあちゃんには関係ない』と言っているようでした。

少々のことで自説を曲げるような祖母ではありませんから、その後も親子間でのやり取りに、その原因に関係なく、介入してくるようになりました。


終焉への伴走B (2002.1.30)

母との同居はマイナスばかりではなく、プラスの面もあります。子どもたちが幼いと、「ちょっとそこまで」の距離でもリスクを考えると連れて行かざるをえませんし、自分たちだけでの留守番は嫌がります。そんな時、身体は思うように動かない祖母であっても、子どもたちにとっては心強い存在です。大人の目があるというだけで、安心して遊んでいることができるのです。

同居による子どもたちへの影響としては、祖母が通るのに自然にドアを開けておくとか、重いものはさっと持つとか、落としたものは拾うとか、祖母の動作に対して何気なく気遣うこともできるようになりました。また、子どもにとって自分の言うことをいつも感心して聞いてくれる祖母の存在は、精神の安定を生むようです。まあ、私の精神は不安定になりますが…

年をとってからの移住は、大変です。慣れ親しんできた土地を離れ、知り合いもいない新しい生活は、母にとって大変なことだったろうと思います。自転車で何処にでもいける私と違って、手押し車を押し休憩しながら移動する母には、すぐそこのスーパーといっても遠いもの。それでも、生活に慣れてくると運動もかねて好きなものを買いに行ったり、お金の管理に郵便局へ行ったり、していました。

長女は祖母についてスーパーに行くと、買ってもらったことのないお菓子やおもちゃつきのお菓子も買ってもらえることを発見!時々ついて行く、と一緒に出かけては買ってもらっていました。忙しい私は、買い物もたいてい一人でサッサと済ませていましたので、保育所に通う子どもはスーパーに行く機会がほとんど無い状態でした。祖母は孫に買ってあげようと思っていますから、吟味する時間がたっぷりあって、子どもにとっては良かったなあ、と思います。

次子も祖母について買い物に行けるようになると、「僕も行きたい」と連れて行ってもらっていました。しかし彼は幼い分怖いもの知らずで、買ってもらっての帰り道、ゆっくり歩く祖母に付き合うのがイヤになって、走って帰ってきたことがあります。オートロックマンションの玄関まで帰ってきて、インターホンにも手が届かず(届いたとしても操作の仕方も知らないので同じですが)ドアが開かない。たまたま庭に出ていた私が叫び声に気が付いたので良かったのですが、エントランスまで行って見ると顔を真っ赤にして「開けて!」叫んでいました。

そんな次子ですが、物心の着くころにはもう祖母との同居が始まっていましたので、少しさめたところのある長女と違って、祖母の存在を当然のように受け入れ祖母に対応します。祖母も幼い子はかわいので、そりゃもうかわいがります。これがまた、私にはストレスの原因の一つとなっていくことになります。


終焉への伴走A (2001.12.26)

母は大正14年生まれです。戦争も、物資不足も、オイルショックも、バブルも経験済み。6人兄弟の上から2番目の長女として生まれ、我を通してきた人です。夫との相性は悪く、私が生まれた頃には破局は始まっていたようです。でも、離婚はしませんでした。今の私からすると、何で自分の人生をやり直さなかったのだろうか?と思いますが、やっぱりできない世代だったのでしょうか?それとも、実は夫に惚れていたのでしょうか?

私は、中学生の頃から親とは離れたくて仕方がありませんでした。高校受験で寮のある学校を選ぼうとして、反対されたことがありました。まあ、我を押し通すほうでもなく、「しゃないか」のノリでその後ずっと一人暮らしをすることなく過ごし、結局、結婚することではじめて親から離れることができました。

母との同居が始まって、それなりに快適に暮らしていただこうと、私なりに気を使いました。「お昼ご飯は、どうする?」に始まって、透析の日には病院からの送迎車に乗り込むまで見送り…。しかし、お客様に対するようなそんな気遣いは長く続くはずもなく、くたびれ果てて、1ヶ月もしないまに風邪で寝込みました。
そんな、気遣い月間が過ぎると、私自身の生活ベースと母の生活ベースの違いに、極度のストレスを感じるようになり、母の顔を見るのも嫌になる状態となってしまいました。以来私の頭の中には『ふるさとは遠きにありて思うもの、親も遠きにありて思うもの』なんて、フレーズが渦巻くようになりました。

そんな私の気持ちが態度にも出ていたのでしょう、ある日母は「そんなに嫌なのなら、どこか施設を探してきて。何処でも入るから」とたまりかねて訴えました。施設を探すことはハンディがあるので、困難なことです。それに施設に入れると間違いなく死期を早めることになるのは目に見えています。どんなにストレスを感じ、どんなに顔を見るのも嫌になっているとはいえ、冷酷になりきれない自分がそこにいました。結局訴えられても、私には黙り込むしかありませんでした。


終焉への伴走@ (2001.12.1)

母と同居するようになったのは、平成10年の正月からです。なぜ同居するようになったのかというと、母に心臓弁膜症が見つかったからです。母は腎不全による人工透析を始めており、丸5年が過ぎていました。病名を言われたとたんからガクッと母の気力は失せ、それまで一人暮らしをしていたのが、もう一人では暮らせないと言い出したのです。
私自身、4歳と2歳の保育園児の子どもがいて、あまり仕事がなかったとはいえフリーで仕事をしながら、週に1度家事とご機嫌伺いをかねて母の家まで1時間ほどかけて通うことに疲れ始めていました。そこに心臓弁膜症に気弱になった母のすがるような毎日のコールと、夫の引き取ってあげたらのいらん言葉が降りかかってきたのです。
母の通う透析病院の主治医に聞くと、こともなげに「この状態で数年はいけると思いますよ」の返事。しかし、なんとかして欲しいという母の願いに、そうなんやと構えていた私の引き伸ばし作戦は失敗。母の願いの中には「私には面倒を見てくれる子どもがいるのよ」という、近隣や透析仲間への見栄が多分に混じっていたのではないかとは思います。
プレッシャーが限界になったので、私の家の近くにある総合病院へ年末に紹介状を持って意見を聞きに行きました。医師から「透析に入った状態が悪いので、寿命としてはH10年かH11年くらいまでですね。いくら長くても透析生活10年を越えることはないと考えておきなさい」とこともなげに言われてしまいました。
「H10年?それって歳が明けたらすぐじゃない」と一瞬クラッときました。そして、1年か2年で決着がつくのなら、3LDKのマンション暮らしでも、まだ子どもの部屋の心配もしなくていい時期だし、と同居を決意したのです。母は「マンションで狭いのに、そこに行くのは気がひける」と一応、遠慮の言葉は言ってくれました。私の頭には「2年」という期限があったので、その時は「まあ、そのうち一戸建てでにでも移るから」と太っ腹に返事したのでした。