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子育て日記 by Fukudome
〜子を持ち親になること、ただいま修行中。その日々を綴ったもの〜


子育て日記I
 ひ弱に生まれた子を育てるのは、結構大変なことだ。手がかかる。すぐに病気になる。ちょっとした風邪が、大事に至る。そう、第二子も生後1カ月もたたないうちに肺炎になり、入院騒ぎを起こした。手がかかるということは当然、上の子にとって面白くない事態ということ。
 ある夜なかなか寝ないのを、何とか寝かせようとし、もう少しで寝そうになっているときに「ああ、もう少しで寝てくれる。そうしたら、上の子のほうに向いてあげられる」と思っていた矢先、「母さんこっちに向いてよ!」と叫ばれてしまった。そう、一からやり直し。上の子に腹を立て「もう少しで寝るところだったのだから!少し黙っていて!」といってしまった。そしたら、ツツっと、子どもはリビングに出て背を向けて泣き出してしまった。しまった、と思ったときは遅かった。「ごめんね」の言葉に返ってきたのは「母さんは、背中しか見せてくれない」だった。
 下が生まれてから、それまでは母の全ての意識が自分に向けられてきたはずの上の子は、確かに比喩的にも、私の背中ばかりを見せ付けられるようになっていた、と思う。あの言葉は生涯忘れることができない言葉になりそうだ。でも、やっぱり今でも背中ばかり見つづけているのかもしれない、上の子は。
 花粉がたくさん飛んだ年に生まれた子は、飛ばない年に生まれた子よりアレルギー疾患になる率が高い、というデータがある。ご多分に漏れず、下の子は花粉の大量飛散の年(1995年)に生まれている。そして、私は花粉症である。ああ、なんてこと!気配りの欠けた食生活をしていた妊娠中に、大量に花粉が飛んでいた空気!そのデータを信じたくなるような、アレルギーっぽい体質になっている第二子は。確かに。
 ちなみに、第二子が生まれた年以降で飛散量が多かったのは、2000年だそうだ。


子育て日記H(2001.9.18)
不妊は第一子が出来ない状態をいうのではない。子どもを2人は欲しいよね、と今の時代贅沢かもしれないけれど漠然と考えていて、2人目不妊というのがあるのを知った。体調も思わしくなかったこともあって診察に出かけて、多くの人が2人目不妊で悩んでいることを知った。現代というのは、子どもの誕生しにくい時代なのだろうか?
不妊治療をするか第2子誕生を諦めるか、という瀬戸際のところでなんと運良く妊娠した。そのときの状態は、第一子はまだまだ手のかかる3歳児で、仕事は忙しかった。とはいえ、仕事が少々忙しくても気にもせず、子どもとの交流はそれなりにこなし、ストレスの多い日々を送っていた。
妊娠は侮ってはいけない、と今つくづく思う。でもそのときは正直、侮っていた。普通と同じではないか!と。その考えへの警鐘として、胎児がサインを出した。「もう此処にとどまるのはいやだ!」と。慌てて、今出てきたら大変だからねと薬を飲んで収めることになったが、この薬と相性が合わず、薬を飲むと心臓が口から飛び出しそうなくらいバクバクする。
胎児は成長に発達段階があって、その段階によって外界へ出てきても育つ状態と、月数が遅くてもその発達時期によって、出てきてしまうと育ちにくい段階のときがある。同じ未熟児でも〇ヶ月の子は育つがそれより遅い〇ヶ月の子は育たないというのは、発達段階の妙が絡んでいるからだそうだ。
36週までに子どもの諸機関は作り上げられる。残りの週は体脂肪をつける時期に当たる。だから、その36週クリアを目指して、それなりに気をつけた。でもまあ、その36週近くまで働いていたのだから客観的に見ると気をつけていたとは言い難い。
36週をクリアして安心したのか、そのクリアした2日後に生まれてきてしまった。出てきた子どもは、低体重児(36週未満だと、未熟児と呼ばれるのだが)。しかも、一声ないたとたんに、呼吸停止をしてしまった。生を受けたとたんに、子どもは小児科入院となった。そして妊娠中に侮って過ごした分だけ、手のかかる子育てとなってしまった。


子育て日記G (2001.7.1)
 10カ月から保育所に通い始めて、1年が過ぎ乳児クラスで進級した。0歳児クラスから1歳児クラスになる。そのときになって、子育ての面白いときを他人任せにしてもったいないことをしたのではないか、という思いにとらわれた。そんな思いを連絡帳に書いたら、年配の担当の保母さんに、食って掛かるように「お母さん、これはどういうこと!」と詰め寄られた。
 冷静に考えてみると、イライラしながら「この子さえいなかったら思う存分仕事ができるのに」とか「なんで私だけがこんな思いを」と悶々と思いながらの子育てだったに違いない。それでは子どもがかわいそうだっただろう。ストッカーの乾物類を床いっぱいに放り出して満悦している姿を見て「オッこんなことができるようになったのね」なんて微笑ましく見ていられただろうか?すべてにおいて「私が」「私が」と自己主張する子を見て「自立への第一歩だ」と見ていられただろうか?
 たしかに、時間に遅れそうになって慌てているときに、自己主張された日にはムッとして声を荒立てたこともあった。出勤前のラストスパートに、三面鏡を覗き込みながらニコニコしているなと思っていたら、スツールの上で立ったままおもらしをされて慌てふためいたこともあった。でも、あれもこれも生活に活気とリズムがあったから乗り切れたように思う。
 保育士というプロフェッショナルのサポートとアドバイス、同じ子育て中のお母さんとの出会い、自分の世界をもてたこと、右も左も分らない子育て1年生の母としては、これほどいい環境での子育てはなかったのではないか、と振り返って思う。
 そして、何より子ども自身が健康体に生まれついてくれたことが、一番だった。
妊娠中も授乳中も食べるものに気を配り(ちょっと遅いかもしれないけれど…)、菓子やケーキは一切口にせず、飲みたいアルコールも禁酒してできる限りの事はしたと思う。それが好結果を生んだのではないかなあ、と私自身は確信している。それと女の子の方が遺伝子も安定しているのだろうか、これは感覚だけだが、丈夫なような気もする。
3年後第2子の男児を生んで、食事・アルコール・ストレスは子どもの身体に大いに関与しているのではないか、男児という遺伝子のせいなのか(単にそういう体質なのかは分らないけれど)健康への安定感は欠けるな、と感じた。後に、生まれた年度の花粉の飛散量も、関係することを知って愕然とした。


子育て日記F(2001.4.27)
 前回熱の事を書いた。その続きに、熱についての私見を薀蓄してみたい。
子どもの出す熱は、往々にして高熱だ。38度突破なんて、かわいいものではない。39度、下手すると40度突破、というのも経験した。はじめは38度突破で驚いていたが、子どもはそれくらいだと、いたって機嫌がいい。オイオイ、と言いたくなるくらい。
さすがに39度を突破してくると、ちょっと静かに寝るようになる。そのうち、うんうん唸りだす。親としては、心配。おろおろする。
このまま放っておいていいのだろうか?
頭、おかしくなるのではないだろうか?
病気か?   いや、この状態は病気なのだけどね、確かに。
当然、医者にかかっているわけだから、医師は38度以上出たら解熱剤の座薬入れてあげてください、とう。今ごろは、インフルエンザ脳症のことがあるので、あまりいわなくなったが。当時は、大手を振って言われた。で、うんうんうなる子を前にして「熱があると子どもはしんどいですからね」という医師の言葉もあるし、さあ、熱を下げてあげるからね、と座薬を使う。確かに熱は、下がる。でも、下がりきるわけではない。38度かそれを下回るくらいには、下がる。そうすると、子どもは元気になってきて、ここで寝ておいてくれたらいいのに、遊び始めてしまう。そして、効力が切れて、また熱が上がり始め、ダウンすることに。まあ、夜中などは熱が下がることで眠ることになるのだが、だからと言って、熱が上がっている状態がなくなるわけ、つまり治るわけではない。
結局、治るまでの時間は、座薬を使っても使わなくても同じだけ、かかる。3日かかるものは3日かかる。座薬を使って熱を下げると、その熱が下がっていた時間だけ、治りもきっちり遅くなることに気が付いた。ウイルスは熱に対して、弱い。身体はそれを知っているのか、自分の体温を上げることによって、ウイルス退治をしているように思う。熱を下げている時間は、ウイルスには一息つける時間ともいえる。
ただ、座薬も使いようで、熱がピークを迎えたときに使うと、一気に解熱し、快方に向かうことがある。座薬も使いよう。でもこのタイミングが、難しい。
 子どもは、高熱が出る。様子がとってもおかしくない限り、見守ることとが結局は治るための近道だと思う。「見守る」これは、病めるときも健やかなときも、大切なキーワードかもしれない。


子育て日記E(2001.4.2)
 順調に滑り出した保育所生活だが、「集団に入る」という洗礼は待ち受けている。そう、生まれて1年近くなると、母体から持ってでてきていた免疫が切れ始めるころでもある。免疫が切れる、そこに集団の中にある雑菌が取り巻く環境に置かれるわけだから、ひとたまりもない。
 打ち合わせに入っているときに、無常にも「保育所から電話ですよ」と声がかかる。出ると「お熱が出ましたのでお迎えお願いします」。仕事中なんよ!打ち合わせ中なんよ!私の立場はフリーなのよ!心で叫んでみても、仕方のないこと。
 迎えに行くと、子どもはケロッとして機嫌がいい。つれて帰って熱を測ってみると、ほぼ平熱!何で!とまあ「!!!」をつけずして語れないような状態。保母さんは熱を測るときに熱湯にでも体温計をつけてから測っているのと違う?と、同じ境遇の母親たち悪態をつきあって憂さを晴らしたこともしばしば。
 でもまあ、その「お熱でました」の洗礼も一段楽した5月、もうすぐ1歳になるなあというとき、金曜日の夜から高熱が始まり、子どもは元気で機嫌もいいけれど、日曜日まで出つづけたことがある。ところが月曜日になると、スコンと熱が下がり元気になった。ヒヤ〜良かった!保育所連れて行ける!それにつけてもあせもみたいなのがでているなあ、きっと熱が出ていっぱい汗もかいたからやね、と思いながら連れて行った。何時呼び出しがかかるか、とヒヤヒヤしてすごした1日も無事終わり、迎えに行った。
 すると、保母さんから「お母さん、このぶつぶつ気になりますから、お医者さんに連れて行っておいてくださいね」といわれてしまった。あせもと違うの?と思いながら小児科に連れて行くと、あきれた顔をしながら「これは、突発性発疹ですね。でもまあ、ほぼ治っていますから保育所は、登所していいでしょう」ということだった。
 突発性発疹は、1歳前後までに罹るもので、2〜3日高熱が続いて熱が下がると発疹が出ておしまい、というものだ。大人が罹るととっても大変な病気だが・・・。まあ、何につけても子どものころに罹る病気は子どものころに罹っていると相対的に軽く済む。
 気づかない、気にしない、というのは気楽なものだ。よく熱が出ていたころでもあり、その熱も1日くらいでおさまり、39度を突破しない限り、子どもは元気!だし、今回の熱も40度近くは出たがその一連のものだと思って、「様子を見よう」と小児科にも連れて行かずにいた。これが、家庭で育てていて、突然の高熱でそれも2日以上も続いたらおろおろしていただろう。


子育て日記D(2001.2.28)
保育所というところは、幼稚園でもそうだということだが、慣らし保育というのがある。つまり、1日保育のところを初めは半日保育から始める。連れて行ったと思ったら、お迎えに行かないといけない。連れて行くと、分かれるとき当然子どもは戸惑って「なぜ置いて帰るのか!」と抗議の大泣きが起こる。そこを無理やり置いて帰るのだが、保育所の玄関を出たとたんから、後悔が始まる。こんなに泣かせてまで、何をすることがあるというだろう、と。こんなことをしている私は、人でなしか?なんてね。といっても、家に帰ると一人の時間がうれしくて、ちょっとルンルンしたりする。
迎えに行くときは、朝の思いがあるので飛ぶように行く。行ってみると、子どもはやはり順応性が早いというか、機嫌よくご飯を食べさせてもらっていたりする。それも、私がするより上手に。1週間もすると、子どもも親もなれる。この1週間が毎朝大泣きされるだけにつらい。保母さんに聞くと、「最初に自分の気持ちを表現できる子は慣れるのも早い。泣かない子は逆に何時までたってもなれない」ということだ。自分の感情を表に出すことで、ストレスを解消しているのだろう。それができないということは、ストレスをためたまま、ということになるのか。その分、何時までたってもグズグズすることになるのだろう。
彼女は、大泣きをした。毎日。だから母である私も、泣きそうだった。やっぱり仕事は止めようかな、と何度も思った。しかし、ちゃんと1週間もすると、機嫌よく行ってくれるようになった。これで、安心して私も出社できる、と安堵した。
その後の洗礼が待ち受けていることも知らずに、連れて行って、出社する毎日が始まった。


子育て日記C(2001.2.15)
 毎日子どもが寝ているときが、私の時間。寝てくれているときは、ひたすら静かに静かに暮らす日々が続く。でも、子どもは成長するもので、徐々に寝ている時間が短くなってくるのが、悲しくもあり楽しくもあり…。
病院で行われる定期検診に毎月あきもせず通っていると、同じ月齢の子どもの成長が見て取れて楽しい。得た結論は、遅かれ早かれできることは、できるようになるということ。できるようになることが、少し早いか遅いかだけである。だのに、つい一喜一憂してしまう。「まだできない」とか「もできてるもんね」とか。
半年以上経ってきて、ほぼ他の子が寝返りを打つようになったのに、わが子はしない。小児科Dr.に相談すると、「そのうちするようになるよ」。でも、しないし、しようともしない。寝返り以外は、すべてこなすのに、なぜしないのだろう?Dr.が出した結論は、「この子にとって、寝返りをしなければならない必要性がないからだろう。必要を感じたらするようになるよ」というものだった。
観察していると、起き上がりたくなると私を呼ぶ。起こすと、機嫌よく遊んだり、立ち上がったり・・・。単なるズボラ!その証拠に、活発に動くようになる10ヶ月を過ぎてくると、ちゃんと寝返りを打って、行きたいところに行くようになった。つまり、彼女にとって必要性が出てきたから、するようになった、ということ。すぐに手をかけるというのもだめだなあ、と親としてこのとき学習した。もっとも、すぐに忘れて手をかけてしまうが・・・
結局1年間、定期検診を受けた。同じころに生まれた子は、1年経つと遅い早いはあったけれど、同じようにできることはできるようになり、ほぼ一線にならんだ。でも、たった一人だけ、いつまでたっても座ることが困難な子がいた。1年経って、他の子がほぼたって歩くようになっているのに、その子はやっと座っているというような状態だった。きっとできるようになるよ、と別れた。転勤で遠方に行ってしまったその子は、その後風の便りで自閉症だったということを聞いた。
いろいろ楽しくもあり大変でもあった新生児の子育て。変則的ではあるが、仕事に復帰する日がきた。そして彼女は、10ヵ月になるころに保育所に入所した。


子育て日記B(2000.12.20)
 ふと気づく「あ、まだ切らへん言うてたのに、もう始めてる!」また気が薄れて行く。次ぎに気づいた時は、「あ、先生子どもを取り出した」と子どもが生まれ出る瞬間だった。麻酔の関係か血圧が乱高下し、頭痛に耐えられず頭を振ったときに目隠しが取れた。そのため手術台の上にあるライトの中心に、ちょうど手術風景が写っているのが見て取れた。まるで映像を見るようにぼんやり見ていた。それが、彼女との出会いの瞬間だった。
 標準より小ぶりの赤子、低体重児だった。後に、ストレス社会で、働く女性に低体重児の出産率が多いと知った。それでも彼女は懸命に産声を上げ、生の誕生を知らせてくれた。 
 母乳をあげているときは、正直暇である。つい余所見をしたり、ボーッとあらぬ方向を見ていたり…。ある日、Dr.に見つかって起こられたことがある。「子どもは、母親の方を見ているのに、君はどこを見ているのか」と。基本的に、自分の時間はすべて自分が使うという生活を送ってきただけに、戸惑った。うんこ、しっこ、暑い、寒い、お腹空いた、眠い、と起きている間「私」のすべてを要求する赤子に。
 母性・母性本能なんて言葉があるが、誰の作だろう。ひょっとして作り出したのは男性か?そんな都合の良いものは、ないような気がする。子を産めば母性があふれる、なんて私には起こらなかった。私は産む選択をし、運良く妊娠出産できた。当然、彼女は育てられる権利を要求することが出来る、この私に。逆に、私には義務がある。
 まあ、権利・義務なんて堅苦しいことは抜きにして、面倒を見させてもらう、というところ。面白く、おかしく、腹立てながら。なんせ、泣くばかりで口きかないのだから。


子育て日記A (2000.12.12)
 朝出かけなくて良い、毎日好きなことをしていて良い、なんて状態はいつのことだっただろう。開放的でのんびり過ごせる日々!とはいえ重いお腹を抱えて動くこともままならない今、近辺をうろつくことぐらいしか出来ない。気晴らしは病院の検診で知り合った、同じ妊婦さんと検診日に話をすること。
 その検診日に、先に入っていっては「入院ていわれた」とガックリしながら出てくる仲間を笑っていると、自分の番でしっかり「状態が良くないので、すぐに入院してください」といわれてしまった。予定の帝王切開の日まで、まだ2週間もあるというのに。急に言われると、何を気にすることもない身分にも関わらず、気が動転してしまった。
 産科病棟は、入院している人は基本的に病気の人ではないので明るい。「太り過ぎ、といわれてやせるための入院です」という人。少し異常があって念の為に入院させられた人は退屈で仕方なく、Dr.の後を付いて回っては「先生、大丈夫やから、退院させて」と懇願している。等々笑える光景に出くわす。もちろん、切迫早産をしかけた人もいる。一方、流産した人もやってくる。そんな人は悲しみに沈んでいる。どう言葉を掛けていいか分からない。何を言っても、うつろに響いてしまう。
 そんな病棟でちょっと主のようになりかけた頃、私の帝王切開の日はやって来た。


親業修行日記@
転職をして、やっと仕事にも馴れ、「これから」というときに妊娠した。子どもが好きではなかったが、不覚に妊娠したわけではない。子を持てたら良いな、妊娠ってどんなものか経験してみたいな、と思っていてできたのだ。
 妊娠してわかった。転職をしたその会社には、産休も育休もない前近代的な会社だということを。別に昭和の時代の話ではない。育休法もほぼ成立しかかっていた平成の話だ。
 編集の仕事は不規則で、出張が多い。保育所もまだ延長保育なんて、していなかった。当然サポートシステムなんて結構な精度もない。おまけに0歳児保育なんて激戦区。ちょっと頭をかすめた頼る親は、共に1時間圏内ながら、病気がち。ピチピチの若さで妊娠したわけではないから、当然親は高齢にさしかかっている。下手に動員しようものなら、手痛い看病を背負うことになる。夫なる人物は当時、当然のように子育ての主役は母となるあなたね、と暗黙の内に主張していた。
 いろいろあがいてはみたけれど、結局夫婦2人だけで共にフルタイムの仕事を持ちながら、子どもを育てるということは、当時の制度下では至難の業にみえた。あきらめの早い私は「人生はなるようにしかならない」けれど「なるようになる」を座右の銘に、子どもの生まれる1カ月前に会社をリタイアしたのであった。