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子供のいる風景 by Ito
〜母の寝言、たわ言、独り言〜


第5回 『子どもと一緒に四季を満喫』 (2002.11.15)

 忙しい現代人でも、空に浮かぶ雲や山の色模様に季節の移り変わりを感じたり、かわいい草花に心を和ませたりすることは少なからずあると思う。このところの私も保育園の行き帰り、1日1日と黄や赤の色を濃くしてゆく山々に目を奪われっぱなしである。
そんな私の目下の楽しみは、息子と一緒の町内散策。少し前にも山すそに沿って気ままに歩き、あぜ道に咲いていたワレモコウをたくさん摘んだっけ。昨年はたくさんの落ち葉を体いっぱいにかぶせて「落ち葉のふとん!」ってはしゃいだっけ。こんな他愛もないことが大好きなのであるが、イイ歳なだけに一人ならちょっと恥ずかしい。そんなとき子どもというものは良い隠れ蓑になるんだな〜。
 でも心配なこともある。何年か前に「野草を食べる」っていうのが流行った時期があったが、そんな時ある新聞の投書欄に載っていた「田のあぜに生えてる野草といってもウチの田んぼなんだから勝手に入って欲しくない」という意見。そんなこと考えもしなかっただけに非常に驚いた。確かに、だだっ広くて囲いもないけどそこは他人の土地。それ以来、少なからず神経質になったのだが、正直なところそんな固いこと言わなくても、と思ってしまう・・・。
 とにかく、公園でもどこでも童心に帰って自然を満喫すれば、楽しさプラスお金の掛からない“癒し”も得られて一挙両得!


第4回 『真っ黒な日焼は健康なんかじゃないよ』 (2002.9.14)

今年の夏も、海やプールは家族連れで多いに賑わっていた。私も10年ぶり(!)に水着に手を通し、家族でプールに行った。たくさんの子どもたちが歓声をあげて水遊びしていたが、私は彼らの真っ黒に日焼けしている姿を見るにつけ、紫外線の影響を気にせずにはいられなかった。
オゾン層の減少による紫外線への問題意識は年々高まっているものの、まだまだ"真っ黒に日焼けするのが健康な子ども"といった考えがあり、夏の終わりに息子と2人で近所のプールに行った夫などは「ウチの子だけ真っ白で恥ずかしかった」と言ったくらい。それを聞いた私は、「有害な紫外線から身を守っている証拠じゃないの」と反論したが、あまり分かってもらえなかったようである・・・。それでも、私が行ったプールでは、胴体から腕と太ももまでを覆うことのできる水着を着た父子の姿があったのも事実である。
そして、気になっていた保育園のプール場に、今年は日差し避けの寒冷紗(かんれいしゃ)が張ってもらえたのだ! こういった対策は私の住む県内でもまだまだ珍しいようで、今後すべての園や学校に広まればと願わずにはいられない。
 水遊びの季節はしばらくやって来ないが、それまでに肌の白さを取り戻すであろう子ども達は来年もまた黒くなってしまうのだろうか。ちょっと心配である。


第3回 『泥んこ遊びの子ども達』 (2002.6.14)

 今年もまた田植えの季節がやってきた。我が家の裏でも、田に水が入れられるやいなや、待ってました、とばかりにカエルが大合唱。6月の風物詩は少々うるさくもあり、でも耳に心地よくもある。
そんなことを考えていると、子ども達の歓声が聞こえてきた。さぁ始まったな、と私は窓辺に駆け寄る。やってるやってる、泥んこ遊びを。すぐ近くの小学生が授業の1時限を使って、田植え前の泥田で相撲をとったりかけっこしたりしているのだ。毎年恒例のこの風景、実はこっそり盗み見するのを密かな楽しみにしている私。いつも身奇麗にしている子ども達が、この時間ばかりは頭の先から泥まみれになって田んぼを転がっているのを見ていると、こちらまで自然とワクワクしてしまうのだ。
そういえば昨年、私たち家族もそんな遊びを楽しんだっけ。里山復興を目的とするNPO団体のメンバーとして、仲間と一緒に田植えをした時のこと。その時も、集まった子どもらは泥の中をスライディングしたりと思い思いに遊びまくり、私はそんな彼らを被写体に、バシバシ写真を撮ったものだった(本当は一緒になって泥だらけになりたかったけど)。あの日はそれこそ表も裏もわからないほど、みんな泥まみれになっていたよなー。
田んぼに入らなくってもドロドロになって遊ぶって、すっごく楽しくて、でも大人になれば他人様の目もあったりでなかなかできないもの。だからそれも今のうち。でも実際には、放課後でも休みの日でも、小学校とは目と鼻の先というほどの我が家にいて、外で遊んでる子どもの姿を見かけけることは驚くほど少ない。下校中に道草もくってない。学校から禁止されてるんだろうか。物騒な世の中になったから。私が小学生のころにしたように、カエルをつかまえたりもしていない。自宅で孤独に仕事をしている私としては、彼らの元気いっぱいの声が、カエル以上に耳に心地よいんだけど。
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そして夕方。再び机に向かっていると、「今日はありがとうございました!」という男の子たちの大きな声が聞こえてきた。何だ?と慌てて外を見ると、学校帰りの小学生が田んぼで作業しているオジサンに今日のお礼を言っているではないか。なんともいい子たち! ちっぽけなことだけど、何だかすごく嬉しくなった。


第2回 『エチケットが大事。でも摂理も?!』 (2002.1.29)

 あれは私が学生だった時のことである。駅のホームで何気なく見た父と息子。男性は30歳くらい、男の子は3、4歳だったように思う。お腹が空いたのだろうか、父親がチョコらしきお菓子の包みを剥いでやっていた。と、その包み紙をポイ、またポイ。なんとホームに巻き散らかしていくではないか。この光景は、まだ子供が身近な存在ではなかった私にも少なからずショックだった。大袈裟ではあるが、「絶対こんな親にはならない」と思ったものである。そして子供ができた今、こういった公共マナーは益々頭を悩ませるタネになっている。
もちろん公共に出るまでもなく、皆が気持ちよく暮らすためには人としてのエチケットが必要だ。それは小さい頃から自然に身に付いていくものだろう。だからこそ、親のみならず大人たちの普段の姿が大切だと思う。それなのに、である。前回のコラムシリーズでも登場させた我が夫。人の鼻先でオナラはするわゲップはするわ、ひどい醜態なのである。そりゃあ生きている証拠、自然の摂理なのだから仕方ないかもしれない。だからこの「匂い物」「鳴り物」は許そう。でもゲップは許せない。出る気配を感じたら、それと悟られないように口の中で処理すべきであろう。
とまぁ話がえらい方向に行ってしまったが、つまりは社会人としてのマナーは大人が手本を示さないといけないということ。でもここで疑問が湧く。平気で空き缶を投げ捨てる人(反対車線の車窓から飛んできた缶が私の運転する車にぶつかってきたこともある)、ホームや道端に痰を吐く人など、こういった事はどういう訳から平気でできる行為として彼らの中に形作られるのだろう。(こんなことを書くと、優等生ぶっているようで嫌だけれど)。子供の頃から躾られても、何かのきっかけで変ってしまうこともあるのだろうか。人前で平気でゲップする夫の"習慣"がどこから端を発しているのか知りたくて、毎度のように聞くのだが、うるさがられて話にならない。どなたか教えてくれないものだろうか。でないと、このままでは数年後の我が家は2人分のゲップとオナラが渦巻き窒息してしまいそうである。


第1回 『少子化』 (2001.12.1)

1人の女性が一生の間に生む平均的な子ども数、いわゆる合計特殊出生率が低下を続けている。ミレニアムベビーや皇太子妃雅子さんの妊娠でちょっとした出産ブームも垣間見えたが、それもいっときの事。少子化はまだまだ続きそうである。この問題を何とかしようと考える政府は平成11年に新エンゼルプランを策定するなど対策を進め、それを受けた各自治体では具体的な施策をまとめている。
例えば私が居住する県。「結婚ワクワク 子どもすくすくプラン」を立て、立派なパンフレットも作っている。それに先立ち開催された少子化対策検討会に、縁あって参加させていただいたのは昨年のこと。10数人のメンバーがあれこれ話し合ったのだが、はっきり言って県は計画策定には住民にも参加してもらいましたよ、というポーズを示したかっただけなんじゃない?と勘ぐりたくなる。というのも、自治体として今後すべきことは保育サービスの充実や仕事と子育てを両立できる雇用環境の整備など、すでに分かりきっているのだから。
実際、私自身も保育所にはずいぶんお世話になってきたが、まさに時間との戦い、綱渡り状態の毎日だった。もう少し延長保育時間が延びればなとは思うものの、子どもの身になればかわいそうでもある。そこで是非進めてほしいのがワークシェアリングだ。失業率が最悪ということで仕事を分け合うワークシェアリングの導入が論議されているが、働く母親にもぜひ導入してもらいたい。フリーランスでは不可能だが、会社勤めにとっては今の仕事を辞めることなく、それでいて子どもと過ごすゆとりもできるはず。それも曜日でシェアするのでなく時間で分ける。そうすれば、保育時間が合わないからと仕事を諦めることもなく、諦める必要がない人でも上手に仕事と子育てを両立できる。今は保育時間をどんどん延長していく傾向にあるが、夜間の仕事に就いている人は別として、本当にこれでいいのかと疑問を覚えてしまうのだ。もう少し多様な働き方があってもいいのだから。現実には会社負担の経費が増えるなど問題もあるが、男性も女性も各世代が働きやすいスタイルが選べる、そんな社会になれば子どもも作りやすいだろう。ましてや子どもに頼らなくても、経済を支える働き手はもっと増えるはずである。