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シアター探訪(劇評)  


2011年
*2月up作品:「蠍を飼う女」
2010年
*2月up作品:「アワード」
2009年
*11月up作品:「か・ら・く・り」

過去のup作品:ア行カ行サ行タ行ナ行ハ行マ行ヤ行ラ行ワ行


「蠍を飼う女」
椎名 麟三 作
稲田 佳雄 台本改訂・演出

イナダプロ・プロデュース公演。今年生誕100周年を迎える戦後文学の作家・椎名麟三の戯曲をもとに、戦後間もない日本の人々を描いた。
今にも崩れそうな崖の下の家に住む吉沢一家は一見ごく普通の家庭だが、家族ひとりひとりが心の闇を抱えている。定年間際でうつ病気味の父。崖崩れへの恐怖や家族への不満でいっぱいの母。ふたりの男性の板挟みになり、売春じみたことまでする長女。その姉に肉親以上の愛情を抱く弟。そして長女に懸想する2人の男性が崖崩れ対策で対立するうちに、やがて父が自殺し……

「家を押しつぶそうとする崖」は、幸せを手に入れたはずの家族を脅かす象徴。舞台装置でも観客を圧するように崖がつくられ、そのまま一家の心象風景を表現する。
全編を通じて、とにかく登場人物たちがみな熱い。長女に妄執を抱く男ふたりが熱くなるのはわかるが、家族への愚痴を滔々と述べる母も熱いし、一見クールに見える長女や弟も実は熱い。小さな小劇団のハコで声量たっぷりに長セリフを言う演出方法にもよるのだろうが、この熱さについていけない観客もいるのでは? 私も声を張り上げるセリフまわしに少々疲れてしまった。
しかし、舞台設定の昭和34年は日本が高度成長期を迎えた時期で、社会全体が熱かった。戦争の記憶がまだ生々しい時代だからこそ、「生きている気がしない」と嘆く登場人物がやけに新鮮に見えたのかもしれない。
作家の戯曲だけに味わいのあるセリフがときどき登場したが、時代背景だけでなく演出も古い。設定自体は面白いので、現代風にアレンジすれば、もっと面白い作品になるのではないだろうか。
(上演期間:2011年1月8日〜16日/ウエストエンドスタジオ)
(宇都宮 2011・01・16)

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「アワード」
今石 千秋 作・演出

ZIPANGU Stage第33回公演。
日本で最も権威を持つ文学賞の授賞式。その華やかな式典会場から、受賞作家が姿を消した。受賞作家はプライバシーを極力隠すタイプのため、誰もその顔を知らない。式典が開かれるホテルのロビーでは、「受賞作家を探せ」とスタッフ・候補作家・マスコミ記者が入り乱れての大騒動となる。
文学賞の授賞式というのは、つくづくネタの宝庫だと思う。芥川賞・直木賞クラスなら、受賞すれば人生が変わる(ちなみに、その他大部分を占める小さな賞だと、なにも変わらないらしい)。受賞者に対する嫉妬やあこがれ、憎悪や尊敬など、さまざまな感情が交錯し、いかにも人間らしいドラマを見せてくれる。本作もそんな思惑たっぷりの登場人物がたくさんいる中、文学に対してピュアな想いを持つホテルマンを主人公に置いたのがよかった。
謎の受賞作家が誰なのか、途中で大体見当がつくのだが、その後も退屈せずに楽しめた。登場する役者さんに特に美男美女がいるわけでもなかったし、等身大の人間として騒動の成り行きを見守る気分になっていたからか。見終えた後、不思議にあたたかい気分になったのも、まるで身近な友人たちを見るように、彼らに感情移入できたからかもしれない。「もう1度見たい」という気持ちにさせられる劇団だった。
(上演期間:2009年11月20日〜22日/新宿シアターサンモール)
(宇都宮 2010・02・08)

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「か・ら・く・り」
原作 ロベール・トマ
演出 岸野 幸正

劇団岸野笑組公演1990プロジェクト。ロベール・トマの『罠』を江戸時代の貧乏長屋に舞台を移し、コメディタッチで描いた作品。主演は岸野幸正さんと戸田恵子さんだ。
毎晩のように飲んだくれる鼻つまみ者の文七(岸野幸正)は、しっかり者の女房・お夏(戸田恵子)のおかげで、長屋から追い出されずにいた。ある日、記憶がなくなるまで飲んだ文七が目覚めたとき、目の前に現れたお夏は、まったくの別人だった。ところが、長屋の連中は当たり前のようにお夏を出迎え…
周囲はみんなわかっているのに、自分だけが現状を理解できない。ひょっとして自分は狂ってしまったのか…? そんな恐怖心を軸に、「お夏は本物か? それとも偽物か?」という興味で観客を引っ張っていく筋書き。後半はやや様相が変わり、ドンデン返しも用意されている。
1時間20分とコンパクトな舞台なわりに出演者も多く、贅沢な内容。コメディはいいのだが、やや演出が古く、笑うに笑えないシーンもあった。お夏の正体がわかったところで終わるのではなく、その続きがあるのは予想外。それなら新事実がわかるたびに、観客をもっと驚かせる工夫があってもよかったのでは?
初めて拝見した戸田恵子さんは、細くて小柄だがステージ上で存在感がある。しかし、テレビで聞き慣れたあの声は舞台でも伸びがよく、聞いていて心地いい。超ハードスケジュールとお察しするが、今後もテレビだけでなく舞台でもどんどん活躍してほしいものだ。
(上演期間:2009年10月16日〜25日/下北沢本多劇場)
(宇都宮 2009・10・30)

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「BANANA FISH」
原作 吉田 秋生
脚本・演出 吉谷 光太郎

Blue Shuttle Produce「Axle(アクサル)」第10回公演。
「アクサル」という演劇ユニットに聞き覚えはなかったが、萩尾望都さんの名作SF「11人いる!」を過去に上演した団体と聞き、なんとなく合点がいった。若い男性ばかりを集めた耽美派(と言っていいものかどうか、よくわからないが)劇団で、女性の役者がいっさい登場しない。スタジオライフや花組芝居に通じるところがある。
そのアクサルが、今回は吉田秋生さんの大作を約3時間の舞台で上演した。4年前の再演らしいが、スケールの大きな物語をうまくまとめた印象だ。
舞台は1985年のニューヨーク。ストリートキッズ同士の抗争で、卓越した知能と戦闘能力を持つ少年アッシュが、日本人のカメラマン助手・英二と出会ったところからストーリーがはじまる。「BANANA FISH」という謎の言葉に導かれたアッシュと英二は、対立するチャイニーズ系ストリートキッズ、マフィア、刑事、華僑のフィクサー、果てはアメリカ軍まで巻き込んだ戦いに巻き込まれていく。
登場人物の多さやアメリカの時代背景、各組織の理解など、説明しなくてはならない情報がやたらと多い作品だが、脚本がよくまとまっている。登場人物のキャラも立っているので、長丁場の舞台にも「ストーリーがよくわからない」という事態に陥らずにすんだ。
主に若手を集めた役者陣は玉石混交。ハコが大きいうえに1階最後列の席だったため、役者さんの顔まで見分けることはできず、残念ながらイケメン診断(?)は不可能だった。トシのせいで視力の衰えもあって、これからは観劇にもオペラグラスが必要か?と、ため息が出た。
(上演期間:2009年4月18日〜19日/新国立劇場・中劇場)
(宇都宮 2009・04・21)

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「ビロクシー・ブルース」
作 ニール・サイモン
演出 鐘下 辰男

ニール・サイモンの自伝的戯曲であり、1985年度トニー賞ベストプレイ賞を受賞した作品を、佐藤隆太など若手注目株が集まり全国公演された。
舞台は第二次大戦中のアメリカ。新兵として集められた6人の若者が、兵舎の中で共同生活を送りながら人生のつらさや喜び、現実の苦みを知っていく。
ニール・サイモンの台本はさすが! 6人それぞれのキャラクターがよく立っていて、群像劇によくある「キャラAとキャラBがカブっていて、違いが最後までわからなかった」という状況がない。1人1人がすんなりと観る者の頭の中に入ってきて、特定のキャラになんとなく好感を抱いたり…といったレベルまで持ってくる。
ストーリーは、ほぼお約束どおり。若者同士が反発しあったり親しくなったり、理不尽な大人(=教官)への反抗があり、童貞喪失のエピソードがあり、同性愛者への複雑な感情があり……逆に、これだけ完成したかたちで青春群像劇を見せられると、私が昔テレビドラマで見ていた群像劇もニール・サイモンの影響を受けていたのか?と思ってしまう。
今勢いのある若手俳優を集めた舞台なので、じっくり彼らを見てみたいのだが、後方の席だったため残念ながら表情までは見えなかった。佐藤隆太さんは頭のカタチで一目瞭然。あの独特の舌ったらずな話し口調も、初々しくてチャーミングだった。演技の迫力は教官役の羽場裕一さんが抜きんでていて、「この人の演技をもっと見ていたい!」という気持ちにさせられた。
(上演期間:2009年2月2日〜22日/PARCO劇場)
(宇都宮 2009・03・29)

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「空(ソラ)の定義」
作 青木 豪
演出 黒岩 亮

第79回の俳優座劇場プロデュース公演。俳優座で上演されるお芝居にはハズレが少ない。今回も、しっかりとした大人のお芝居を見せていただいた。
舞台は東京郊外のとある名画喫茶。店主である初老の男のもとに、女医として活躍するひとり娘と、やはり医師の娘婿が訪れている。若い夫婦は実はあることでモメている。妻にアメリカ留学の話が持ち上がったものの妊娠3ヵ月とわかり、夫が留学に反対しているのだ。そこへ店主の再婚話が持ち上がり、今度は親子が微妙な空気に。店主には昔、学生運動の闘士だった妻がいたが、ひとり娘が2歳のときに革命に身を投じ、その後刑務所暮らしをしていた。再婚相手はそのことを知っているのか、それとも・・・?
店主、娘、その夫、再婚相手、謎の客、そして常連客2人で展開される、安定したお芝居。革命に身を投じた妻を持つ店主、キャリアを追求したい娘と昔ながらの価値感を変えられないその夫。2組のカップルの悩みと選択が織りあわされながら、ストーリーが進行する。
2組のカップルを見ていて思うのは、いつの時代も考え方が先進的なのは女性の方だ、ということ。それを青木豪さんという男性の作家が書いてくださったのは、とてもうれしい。男性は得てして自分が保守的であることを認めたがらないから。
客席には団塊世代を多く見かけたし、私はこの作品のテーマを「団塊世代へのオマージュ」と解釈した。悩んで、迷って、議論して、時には自分の失敗を心から後悔する。人生、それで充分ではないか。なにも悩まず、なにも議論しない人生ほど、空しいものはない。
(上演期間:2008年12月11日〜21日/俳優座劇場)
(2009・1・23 宇都宮)

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「ネムレナイト2008
作・演出 塩田泰造

大人の麦茶第15杯目公演。以前に上演された作品をキャストを一新してのリバイバル公演らしい。
古いお寺に住みついたネアカな幽霊3人組。時の流れも彼らには関係なく、ダラダラと毎日を過ごしていたが、ある日、夫の葬式に訪れた未亡人にちょっかいを出したことがきっかけで彼女が死亡。殺人事件に発展し、お寺の住職に疑いがかかる。幽霊3人組は昔なじみの住職を救おうと知恵を絞るのだが・・・
以前に上演した作品のリバイバルというから、それなりにこなれた内容なのだろうと期待して出かけたのだが、どうも入り込めない舞台だった。
登場する幽霊たちは、いずれも現世の登場人物の昔なじみ。それぞれ事情があって夭折し、成仏できないまま生きている人々を見守りながらお堂に住んでいる。その設定はいいと思うのだが、彼らひとりひとりの現世への執着がどうも伝わってこない。明るく軽くホラーコメディを演じようという意図なのか、セリフばかりが空回りして、口先だけで芝居を進行している印象だ。キーパーソンでありながら、いちばん最後に登場する幽霊が見える女性に関しても、もっと強烈に個性をアピールして、前フリしてもよかったのでは?
紀伊國屋ホールというハコが少し大きすぎたのか。小劇場の方が楽しめそうなお芝居だった。
(上演期間・2007年6月18日〜22日/紀伊屋ホール)
(2008・7・20 宇都宮)

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「錦繍(きんしゅう)」
原作 宮本輝
脚本・演出 ジョン・ケアード

宮本輝の同名小説が鹿賀丈史・余貴美子の主演で舞台化された。
有馬(鹿賀丈史)と亜紀(余貴美子)はかつて夫婦だった。しかし、有馬が愛人と心中未遂事件を起こして離婚。その10年後、紅葉の美しい蔵王で二人は偶然再会する。亜紀は再婚相手との間にできた脳性まひの息子との2人旅。しかし、夫との関係はすでに冷めきっていた。有馬は事業に失敗し、借金取りに追われた末に、蔵王にたどり着いていた。蔵王での再会後、心中事件の真相を知らないまま別れた亜紀は有馬に手紙を出し、10年越しの疑問を解いていく・・・
悲惨な理由で別れた夫婦が紆余曲折の人生をたどった後、10年後偶然に再会する。お互い相手が憎くて離婚したわけではないから、懐かしさや罪悪感、恨みつらみなど、さまざまな感情が入り混じり、相手に連絡を取らずにはいられない。特に、お嬢様育ちで父親に無理やり離婚させられた亜紀は、真実を知って人生を一歩進めたいと願う。
登場するのは、壮絶な関係の男と女。亜紀は2度目の結婚もうまくいかず、有馬は女のヒモに近い暮らしぶりだ。人生に「もしも」はないが、「もしもあのとき、ああしていたら・・・」と、つい考えてしまうのは人間の性。人生に失敗はつきものだし、懸命に生きていても報われないことは多い。この元夫婦はそんな人生の体現者のように見える。
ただ、私は亜紀の女性としての生き方に、少々イライラを感じてしまった。お嬢様育ちで父親に逆らえないのはよくあるパターンだが、ちょっと流されすぎていないか? 自分で選択した末の失敗と、親の言うなりになった末の失敗では、同じ失敗でも学ぶことが違う。時代背景的に「そんなものか」とも思うが、障害を負って生まれてきた息子を「自分の業のせい」と思い込むのは勘弁してほしい。母親の愛情ゆえとはいえ、そんなふうに考えられることを息子も喜ばないと思うのだが。
不勉強にして原作を読んでいないのだが、同行した友人によると原作は手紙形式の小説らしい。そのせいか舞台のセリフも手紙文の朗読調が多く、主演の鹿賀さんも余さんもセリフをよく噛んでいた。たまたま調子が悪かったのか、それともセリフが読みづらいのか・・・尺八演奏やモーツアルトの曲をうまく使った演出がよかっただけに、残念だ。
(上演期間:2006年7月21日〜8月12日/天王洲銀河劇場)
(2007・8・12 宇都宮)

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「OUR HOUSE」
作 ティム・ファース
演出・翻訳 G2

ロンドン・ミュージカルのヒット作を中川晃教主演で再現した。
お目当てはなんてったって中川晃教。数年前から気になっていたが、なかなか舞台を見る機会がないまま今に至っていた。歌唱力が注目の役者さんというイメージどおり、小柄なからだからよく伸びる高音が紡ぎだされる。16歳の初恋にはじまり、その後約10年間の人生の変転が描かれるのだが、役柄との年齢的なギャップもなく、全身を使っての熱演だった。
「もし、あのとき○○しなかったら、その後の人生はどうなっていただろう?」という、よくあるシチュエーションストーリー。16歳の夜、人生の岐路に立たされた主人公が、「幸せな人生」と「不幸な人生」をそれぞれ歩む様子を、中川晃教の早変わりで見せる。歌と音楽で楽しませるミュージカルには複雑なストーリーはあまり向かないのか、テンポよく物語が進行し、最後はハッピーな気分にさせてくれる。
「ミュージカルはハッピーエンドであるべきだ」と言った友人がいたが、確かにこれがアンハッピーエンドだと後味が悪い。あれだけパワフルに歌って踊ったのはいったいなんのため?と思えてくる。しかし逆に、単純なストーリーをハッピーエンドで終わらせるための弊害(パターン化、マンネリ、どれも同じに見える・・・などなど)も存在するような。数を見ても心に残るものが少ないようでは、高いチケット代が空しい。
役者さんについては、中川晃教をはじめ相手役の池田有希子など、若手がどんどん出てきている印象。脇を固めるベテラン陣の香寿たつきさんや今井清隆さんも歌唱力があって、安心して聴くことができた。
(上演期間:2006年6月16日〜7月2日/新国立劇場・中劇場)
(2006・07・23 宇都宮)

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「東京原子核クラブ」
作 マキノノゾミ
演出 宮田慶子

1997年度読売文学賞を受賞したマキノノゾミ作品の再演。東京国際フォーラムの柿落とし公演のために書かれたものらしい。
舞台は戦前の東京・本郷。東京大学理化学研究所に勤める友田は、下宿屋「平和館」の家主父娘や個性的な住人に囲まれて暮らしていた。「平和館」で暮らすのは友田のような研究者以外に、ニセ東大生・貧乏な劇作家・偏屈なジャズピアニスト・仕事を転々とする紅一点の女性など、にぎやかな面々。日本の原子物理学は決して世界に遅れをとるものではないと真摯に研究を続ける友田だが、やがて彼ら研究者たちの上にも戦争の影が近づき、「新型爆弾」の開発が軍部から依頼される。劇作家やジャズピアニストは自由な創作活動ができなくなり、ニセ東大生は徴兵され・・・
7つある部屋に、それぞれ個性的なメンバーが住む下宿屋を舞台にした青春群像劇、といったところ。舞台が本郷なので、理化学研究所の研究員やら、ニセ東大生やらが中心となり、バラエティに富んでおり、それぞれキャラも立っている。
なんとなくストーリーの先は読めるのだが、読みきれない部分に笑いや悲しみの感情が生まれてくる。下宿屋に場固定されたお芝居なのだが、人物と人物の絡みがうまくて、時間経過もわかりやすい。変わらない人、変わってしまった人が象徴的に描かれ、観る者の胸にさまざまな感情が湧き起こる。そして最後に感じるのは、戦争がいかに人々の幸せを破壊するかということ。
みんなが貧しかった時代。でも、人と人とのふれあいだけはいっぱいあった。こんな下宿屋、今もどこかにないのだろうか?
(上演期間:2006年7月6日〜16日/俳優座劇場)
(2006・7・17 宇都宮)

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「無伴奏デクノボー奏鳴曲(ソナタ)〜宮沢賢治の夢のかけら〜」
作・演出 ふじたあさや

「セロ弾きのゴーシュ」のエピソードに重ねて、宮沢賢治の生涯のある一時代を表現した2人芝居。
実名で舞台に登場する役者自身がチェロを弾き、宮沢賢治を演じ、ゴーシュを演じる。一方、突然部屋に現れる謎の女が「セロ弾きのゴーシュ」の登場人物を演じ、賢治の妹トシを演じる。男性役の藤井つとむさん、女性役の勝倉けい子さんとも演技が達者で、場面転換のたびに新しい登場人物にスムーズになり代わる。私自身、宮沢賢治にあまり詳しくないのだが、賢治のストイックな人となりや妹トシとの心の交流が素直に伝わってきた。
作・演出のふじたあさやさんは「しのだづま考」の作者でもあり、1人芝居や2人芝居などの小品に力を発揮される方と推測した。ハラハラドキドキはないが、静かに穏やかにお芝居を楽しみたいときに、こういった作品がオススメかもしれない。
(上演期間:2006年5月2日〜4日/東京芸術劇場小ホール1)
(2006・05・21 宇都宮)

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「秘密の花園」
作 唐十郎
演出 三枝健起

唐十郎さんの芝居は難解で、よくわからないエネルギーに満ちている。
シアター1010といえば約700席ある結構大きな劇場で、主演は大女優の三田佳子さん。準主役にも松田洋治さん、大澄賢也さんと、メジャーどころを揃えた。にもかかわらず、演じるお芝居はいかにも小劇団。しかも再演で、80年代の香りが強烈だ。
舞台は日暮里のさびれたアパート。そこに住むキャバレーの女・一葉(いちよ)(三田佳子)は、夫がいるにもかかわらず、部屋に通ってくるアキヨシ(松田洋治)の給料を当てにしている。アキヨシが関西への転勤話を持ち出すと、一葉はトイレで首吊り自殺。それと同時に、一葉に瓜ふたつの女・双葉(もろは)(三田佳子の2役)が玄関に現れる。彼女はアキヨシの血のつながらない姉だった・・・
一葉と双葉という正反対のキャラクターを三田佳子さんが堂々と演じ分け、いかにも女優!という印象。ストーリーの主軸となるアキヨシ役の松田洋治さん、大女優の横に立つのがいかにも似合う大澄賢也さんがともに熱演。実際に舞台に水を流して演出する洪水シーンの舞台装置も面白い。
それにしても、3時間も目の前で見ていたにもかかわらず、ストーリーがよくわからないのは唐作品の特徴か。
セリフが長くて枝葉が多く、まるで歌舞伎の口上のように芝居じみている。観ている者はセリフから舞台設定を想像するわけだが、登場人物が次に起こす行動が常識を逸しており、想像した設定に自信がもてない。まるで水の上をふわふわと漂う浮き草の感覚。そこに次から次へと高エネルギーな芝居がぶつけられる。足元が見えないまま、どこかわからない場所へ連れていかれる感覚に近い。
千秋楽だったため、最後に唐十郎さんも挨拶されていたが、本当に小柄な方なので驚いた。あの小さなからだのどこにこれだけのパワーが隠れているのか。同じ頃にTBS系「情熱大陸」でも唐さんのエネルギッシュな活動を取り上げていた。理解しづらいが、魅力的。今のところ、私にとって唐さんのお芝居はそういう存在だ。
(上演期間:2006年4月15日〜30日/シアター1010)
(2006・05・20 宇都宮)

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「黙って行かせて」
作 ヘルガ・シュナイダー
脚本 杉浦久幸
構成・演出 宮ア真子

劇団朋友第31回公演。ポーランド生まれの作家ヘルガ・シュナイダーの自伝的小説の舞台化。
ヘルガが4歳、弟はまだ1歳のとき、母トラウディはナチス親衛隊員SSとして活動するために家を出た。やがて母はアウシュヴィッツ第2強制収容所の看守に“出世”し、ユダヤ人虐殺に手を貸した。その50年後、ヘルガは生き別れになった母を老人ホームに訪ねる。しかし、老いた母から悔恨の言葉が語られることはなかった・・・
ナチスのユダヤ人迫害を描いた映画や小説、お芝居は数多いが、本作は加害者の立場から描いた点が異色だ。自分を生んでくれた母がナチス親衛隊員で、しかもアウシュヴィッツで看守をしていた。その過去は、娘や残された家族にとっても大きな汚点。逃げるように故郷を去り、イタリアで新しい人生をはじめた娘だが、やはり母との関係は常に心の片隅にひっかかっている。これを乗り越えなければ、先へ進めない・・・母は90歳。娘も60近い。関係を修復するなら、今しかない。そう考えて初老の娘が母を訪ねていく気持ちはよくわかる。
ところが、母は自らの罪を認めていない。アウシュヴィッツにいた限りは、当然ユダヤ人虐殺に手を染めているはずだが、「私は直接手を下していない」と弁明する。直接殺してなくても、ユダヤ人が虐殺されていく様子を傍観していたなら、罪は重い。ひとことでいいから反省や謝罪の言葉が聴きたい、と願う周囲の気持ちをよそに、母はあくまでも自己弁護に終始する。それを目の前で見せつけられた娘の落胆は、想像にあまりある。
母は幼い子どもたちよりヒトラーへの忠誠を優先した。母であることよりも、仕事で評価されることを選んだ人なのだろう。しかし、その“仕事”がとんでもなかった。狂気の時代だったとはいえ、自分の子どもと同じ年頃のユダヤ人の子どもたちが殺されていくのを、たいした感慨もなく見送った精神構造には同調できない。「ああ、こんな人もいるのだな」と思い、「人間の悪とはなんだろう? 善とはなんだろう?」という答えの見えない難問に突き当たる。
母親役の菅原チネ子さんが好演。イヤな老女役ながら、最後に「また会いに来ておくれ」と娘にすがる老人の孤独さが胸を突いた。

(上演期間・2006年2月1日〜6日/俳優座劇場)
(2006・2・16 宇都宮)

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「ふたりのカレンダー」
作 アレクセイ・アルブーゾフ
演出 高橋昌也

黒柳徹子さん主演で海外コメディを上演するシリーズも本作で19作品目らしい。しかし、観に行くのは初めて。黒柳さんの演技は子どもの頃に見ていた「サンダーバード」のペネロペ役しか知らないので、楽しみに出かけたのだが・・・
杉村春子さんや越路吹雪さんも演じたという有名な戯曲の再演。2人芝居で、共演は団時朗さんだ。
舞台は北国のサナトリウム。その入所者で自称元女優・現サーカス勤務のリージャ(黒柳徹子)と所長のロディオン(団時朗)が、当初はぶつかり合いながらも、やがて心を通わせるようになる、というよくあるストーリー。見どころは、どんなエピソードの積み重ねで大人の男女に愛情が芽生えていくのか、といったところ。
確かに細かなエピソードが丁寧に積み重ねられ、リージャとロディオンそれぞれの過去が徐々に明らかになっていくのだが・・・人情喜劇のはずなのに、どうも舞台全体に情感が感じられない。私が思うに、これは黒柳徹子さんのしゃべり口調が強烈過ぎてセリフに感情がこもっていないことと、全身をうまく使った感情表現ができていないことによるもの(テレビの人だから?)。「徹子の部屋」のようなマシンガントークにならないよう気を遣って演技されているのはわかるのだが、やはりそこに立っているのはリージャではなく黒柳徹子なのだ。
演技力はともかくとして、こうした舞台を19作品も続けておられるというのは、本当に演じることがお好きなんだろう。舞台はなかなか儲かるものではない。特に座長公演は座長の持ち出しになるという。女ひとり、功なり名遂げた後はやりたいことをやる! 大いに結構だと思う。
(上演期間・2005年10月3日〜23日/ル・テアトル銀座)
(2005・12・27 宇都宮)

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「写楽考」
矢代静一 作
マキノノゾミ 演出

35年前の矢代静一さんの代表作を、マキノノゾミさんが新たな演出で手がけ、見ごたえのある3時間だった。
写楽という浮世絵師には謎が多い。謎が多いだけにクリエイターの想像力を刺激するらしく、映画や舞台の題材に採り上げられてきた。ここに登場する写楽像は切ないほど若くて一本気で世渡りが下手。売れる絵よりも、情熱のままに自分の好きな作品を創作するだけで、貧乏長屋から当分は抜け出せそうにない。一方、同居する歌麿は画商におもねり、売れる絵ばかり描こうとする現実派。この若者2人の対比が秀逸で、冒頭の人物紹介部分から観る者を飽きさせない。長ゼリフが多いのだが、長いと感じさせない中身の濃さも凄い。
ストーリーは写楽が呉服屋の女房殺しの嫌疑をかけられてから大きく動く。呉服屋の女房を巡るエロチシズムには「本当に35年前の作品?」と目を見張るし、その後の写楽と歌麿の人生の明暗ぶりも胸が痛くなる。さらに切ないのは、殺された女房の下働きをしていたお米の人生だ。写楽の才能を信じ、お尋ね者となった彼にひたすら付き従う女は愚かだが一途で愛情深く、苦労を苦労とも思わない強さがある。彼女の一生がラストシーンまでしっかりと語られ、最後は思わず涙してしまった。
脚本が傑作だと演じる役者さんにも大いに熱が入るのか、写楽を演じた高橋和也さん、お米役の田中美里さん、歌麿役の小林高鹿さん、十返舎一九役の山路和弘さんはいずれも熱演。私は特に画商の蔦谷役の木村靖司さんにハマッた。
この写楽役は過去に西田敏行さんや竹中直人さんも演じたという。また別の配役で観てみたい。きっと全く違った写楽像とお芝居が楽しめるような気がする。
(上演期間・2005年8月30日〜9月10日/THEATRE 1010)
(2005・9・19 宇都宮)

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「Kiss Me You〜がんばったシンプー達へ〜」
作・演出 藤森一朗

今年の夏は戦後60周年という節目のせいか、なんとこれで4週連続戦争ものの観劇になった。
今回観たのはAir studioプロデュース公演だ。
舞台は神風特攻基地のある田舎町。4人の特攻隊員を巡る地元の女学生たち、上官たち、食堂のおばちゃん、故郷から駆けつけた母親といった人間模様がストーリーの主軸だ。
チラシで劇団代表が「このお芝居はウソです」と語っているように、のっけからあり得ないエピソードのオンパレード。「リアルに作ろうとしたんですが、僕ごときに特攻隊員の人達の気持ちが分かるはずもありません。そういうわけで、いつも通りのAir studioスタイルで演ることにしました」というわけで、コメディタッチのお芝居になった。
「いつも通りのAir studioスタイル」ってどういうものなんだろうかと見ていると、昔ながらの食堂を舞台に、特攻隊員や女学生がおばちゃんとやりとりする人情喜劇風。好きな女学生に想いを打ち明けられない主人公のために上官がひと芝居打つといった、まるで吉本新喜劇のようなストーリー展開だ。男女7歳にして席を同じうせずの時代に、こんな自由恋愛があったはずがない。ましてやそれを上官がフォローするなんて・・・とダメ出しの嵐になりがちだが、もうこれは作り話と思って見るしかない。
ところが特攻命令が出された後半は、前半と違い、泣かせシーンの連続。恋人同士の永遠の別れは現代の若者の涙腺も刺激するらしく、私の前列や後列に座っていた学生風の男女から鼻をすする音が聴こえた。ちなみに、私の隣席の明らかに戦争を知っている世代の男性は、コメディシーンに笑って反応し、それ以外の場面ではほとんど居眠りしておられた。開幕直後のあり得ない自由恋愛シーンに怒り出すのではないかと実は心配したのだが、杞憂に終わってよかった。
代表のコメントのとおり、特攻隊員の心情なんて1年や2年で理解できるはずがない。ましてや時代そのものの空気や軍隊の雰囲気なんて、経験しなけりゃわかるはずがないだろう。戦争はキレイ事や美談ですむもんじゃない。突撃前の特攻隊員が覚せい剤を使用していたという逸話がまことしやかに伝えられているのも、「いくら時代とはいえウソくさい」と思う人が多いからだ。
宗教心というバックボーンをもたない日本人が特攻攻撃に身を投じるには、(たとえ覚せい剤を使っていたとしても)「お国のため」「家族のため」という意識づけが必要だった。そうなるよう周到に仕向けた国ぐるみの洗脳政策こそ恐ろしい。
重いテーマをどうにか料理した熱意は伝わった。それにしても2時間半に渡る上演時間はちょっと長い。長すぎる間合いを縮めるだけでも、かなりテンポのいい芝居になるのではないか。
(上演期間・2005年8月12日〜14日/朝日放送abc会館ホール)
(2005・8・22 宇都宮)

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「信長〜神に挑んだ男〜」
作 合馬百香
演出 与儀英一

劇団め組の公演に招待券をいただき、うだるような暑さの新宿までお芝居を見に行った。
初めて見に行く劇団なので全く先入観をもたずにいったのだが、本公演用のチラシを見てビックリ。ひょっとして男性耽美派劇団なのか? と思わせるぐらい、男性陣に目もとキリリのメークを施して、プロフィール写真を撮影している。
終演後のロビーはもう役者のファンクラブの様相。お気に入りの若い男性役者に熟年オバサマが写真をおねだりし、生写真ブロマイドをスタッフが声高に販売する。う〜ん・・・これまであまり経験しなかった世界だ。
所属役者をアイドル並みに仕立てるだけあって、主役級2人はかなりの美形と見た。特に信長役の新宮乙矢(この芸名がすでにナル入ってないか)はジャニーズ顔負け。実在の信長も美男子だったというし、NHKの大河ドラマでも歴代の信長役は顔重視の配役で、演技力は二の次という説もある。新宮乙矢はセリフもしっかり言えてるし、演技は悪くない。しかしそれにしても、なぜ信長?
思えば、信長ほど役者心を刺激し、演じてみたいキャストはないのではないか。豪胆にして斬新。常に進取の気性に富み、視野が広く、当時の日本人のはるか上から世の中を見下ろしていた。最期の散りぎわも華やかだ。信長が秀吉のように老醜を晒していたら、ここまで人々に支持されていないだろう。
よく知られている時代の物語だけに、次から次へと場面が変わって新しい登場人物が現れても、史実を演じるのだから内容はよくわかる。有名シーンだけをつなげてもお芝居になるといえばなるのだが、舞台全体を貫く軸は「なぜ光秀は信長を裏切ったのか?」だ。これには小説でも舞台でもテレビドラマでも、さまざまな解釈がなされてきたが、心に残るような斬新なものはまだない。ここは表現の自由度の高い舞台だからこそできる、ユニークなオチがほしかった。
(上演期間・2005年7月31日〜8月2日/紀伊国屋サザンシアター)
(2005・8・22 宇都宮)

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「もうひとつのグラウンド・ゼロ」
原作 林京子「長い時間をかけた人間の経験」ほか
脚本 津川泉
演出 成瀬芳一

グラウンド・ゼロといえば、ニューヨークを襲った9・11同時多発テロのワールドトレードセンター跡地のこと。恥ずかしながら、私の認識はその程度だった。そういう人、多いのではないだろうか。
しかし、このお芝居を観て知ったのだが、グラウンド・ゼロとはもともと原爆の爆心地を指す言葉らしい。同時多発テロと原爆を同じ言葉で語る感覚に疑問を呈するセリフがお芝居の中にも出てきたが、確かにアメリカ人はわかってない。核兵器の威力のすさまじさと、長く人体に残す爪あとを。
馬渕晴子さん主演のこの舞台は、長崎原爆の直撃を受けた女子高生2人の戦後を描いたもの。爆心地から命からがら逃れ、その後も病気の発生におびえながらも励ましあって生きてきた2人の女性。そのうちの1人は結婚したものの、あえて子どもを産まなかった。放射能の影響がわが子に及ぶことを恐れての選択だった。もう1人は結婚し、子どもをもうけたものの離婚。常に原爆の影に怯える妻と一緒では、夫は心からくつろぐことができなかったという結末がもの悲しい。
ストーリー構成上、馬淵晴子さんの独白が多く、登場人物のセリフにもメッセージ性が強く感じられた。訴えたいことがあるあまり、教育的なセリフになってしまって、お芝居としての面白みを削いでいたのが残念。1時間半というコンパクトな上演時間は、内容と考え合わせても正解だ。
主演の馬渕晴子さん、共演の滝田祐介さんはともに安定した演技。馬淵晴子さんの肌にしみこむような声が印象的だった。
(上演期間・2005年8月6日〜8月7日/カメリアホール)
(2005・8・19 宇都宮)

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「沈黙の海峡」
脚本・演出 品川能正

日本の東京ギンガ堂と韓国のソウル市劇団の共同制作として、まずソウルで上演され、好評を博した舞台。キム・トンジンという1人の韓国青年の人生を通して日韓の歴史を語り、戦争が1人の人間の人生をこうも過酷なものにしたのかという思いで、終演後もしばらくショック状態だった。
東京近郊の精神病院で、韓国籍の老人(西本裕行)が死を迎えていた。何十年もまともな言葉を発しなかった老人が、死を前にして口にした言葉、それは「ヒョンヒ」。その言葉をきっかけに、現在と過去が交差しながら老人の一生が描かれる。
25歳の韓国人青年キム・トンジン(カン・シングー)は親兄弟と強引に引き離され、日本軍に徴兵される。やがて彼は下関の芸者置屋で生涯の恋人ヒョンヒ(ジョン・ヒョナ)と出会い、つかの間の幸せに浸る。しかし、昭和20年8月、ヒョンヒは広島の病院に看護婦として勤務することになり・・・
韓国人俳優のセリフはハングル語で演じられ、字幕がつく。このセリフ自体は少ないのだが、役者さんに声量があってセリフ1つ1つに力がこもっており、熱演ぶりが劇場の隅々まで伝わってくる。
日本人俳優も負けていない。主人公の最晩年を演じた西本裕行さんの演技には感動した。セリフにすれば、本当に2言3言。長年に渡り記憶喪失をわずらった老人の発する言葉だから、下手をすればなにを言っているのかわからないような発音。しかし、その言葉にこめられた戦後数十年の想いが客席にも伝わり、どうにも涙が止まらなかった。
戦後60年たっても日本と韓国の距離はなかなか縮まらず、人々の歴史認識には大きな隔たりがある。この舞台も稽古を進めながら日韓のスタッフの間で議論を繰り返し、脚本を何度も書き直したという。しかし、戦争を憎む気持ちはどちらも同じ。若い恋人たちに幸せになってもらいたい・・・心を病んだ老人に、最後のやすらぎを与えてあげたい・・・人のこんな気持ちに日韓の違いなんてあるわけない。
沈黙の海峡とは、日韓の間に横たわる玄界灘のこと。少しずつ少しずつだが、人の心の中の海峡は狭まりつつあると信じたい。
(上演期間・2005年7月26日〜8月3日/俳優座劇場)
(2005・8・15 宇都宮)

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「ダモイ〜収容所から来た遺書〜」
原作  辺見じゅん
作・演出 ふたくちつよし

原作は数々のノンフィクション大賞を受賞した辺見じゅんさんの「収容所から来た遺書」。舞台は主人公の山本幡男(平田満)と、その収容所仲間の新野(阿南健治)、野上(新納敏正)の3人で進行する、とても静かで抑えた演出のお芝居だった。
元上官に罪をなすりつけられ、その結果ダモイ(帰国)がかなわず、シベリアでの捕虜生活が数年間に及ぶ野上は、人を信じられない人間になっていた。ところが、移送された収容所で出会った山本は、過酷な収容所生活でも希望を失わず、明朗快活に「日本に帰ったら、ああしようこうしよう」と未来の夢を語る変わり者。当初は山本を避けていた野上だが、山本の主宰する句会に参加するうちに、徐々に心を開くようになる。やがて山本が病に倒れ、誰の目にもダモイがかなわぬ夢だとわかるようになり・・・
説明的なセリフや時代を象徴するようなシーンがほとんどなく、3人の会話だけで数年間の収容所生活の様子が進行していく。シベリア抑留について多少なりとも知識のある観客ならいいが、全く知識のない人にはなにがなんだかわからない舞台かもしれない。
私は舞台を見てから主人公の人となりや収容所生活の詳しい様子がもっと知りたくなり、原作を読んでみた。そして、山本が満鉄調査部出身のインテリであること、それゆえにスパイ容疑をかけられ、ダモイが遅れたことなどを知り、なるほどと納得した。また、山本がロシア語に堪能でありながらソ連側と接触することを極力避けていたこと、学生時代は共産主義に傾倒していたにもかかわらず、その共産主義の国で言葉にできない失望を味わったこと、軍隊式の上下関係をなによりも嫌い、元将校にも元一兵卒にも平等に接していたことも、彼の人柄を知るなによりの手がかりになった。
しかし2時間ほどのお芝居では、なかなかここまでの情報は観客に伝わらない。ソ連側の看守やソ連側に協力して内部通報者になり果てた日本人などを登場させてもよかったような気がする。山本を巡る人々も数多くバラエティに富んでいるので、あえて新野と野上に絞った脚本がちょっと疑問だ。3人の役者さんは溢れ出す感情を抑え気味に演じる、むずかしい舞台だったように感じたが。
ラストでモノローグ的に語られる山本の遺書は、1度聞いただけでは素通りしてしまうが、何度も何度も読み返すうちに胸に訴えかけてくる内容。この遺書の力が山本の死後もなお仲間を励まし続けたことは感動的だ。
(上演期間・2005年7月22日〜24日/カメリアホール)
(2005・8・15 宇都宮)

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「シンデレラストーリー」
鴻上 尚史 脚本
山田 和也 演出

誰もが知っているあの「シンデレラ」を、鴻上尚史さんがベタな脚本で描いたミュージカルの再演。ボケ&ツッコミを繰り返す関西ノリでテンポよく進めていく芝居に、私の中の関西人の血が騒ぐのか、かなりウケて笑わせてもらった。
基本は「シンデレラ」と全く変わらない。意外性があるのは、シンデレラの実父が登場することと、身分違いの愛を反対する国王夫妻に王子とシンデレラが現代的に反抗すること。
しみじみ感じたのは、日本にもミュージカルが根付いたのだなぁということ。芝居の途中で役者が突然歌い出すミュージカルに違和感を抱いていた日本人は少なくないはず。80年代からブロードウェイミュージカルが日本人の手によって上演されるようになり(このあたりは劇団四季の功績か)、やがてテレビや映画をテリトリーとしていた役者さんが舞台ミュージカルに挑戦するようになった。今やミュージカルからテレビや映画に打って出られる若手が育っている。今回の主演の若い2人(大塚ちひろさんと浦井健治さん)もそうだ。アイドル顔負けのルックスで、歌もしっかり唄えるわけだから。脇をデーモン小暮閣下や尾藤イサオさんのような実力派が固めるのも大きい。
蛇足だが、S席1万円というチケット代の高さもミュージカルの特徴だ。これも劇団四季の功罪か。ブロードウェイも約1万円するが、ちょっとレベルが違う。もう少しお安くならないものだろうか。
(上演期間・2005年5月17日〜6月5日/ル テアトル銀座)
(2005・6・19 宇都宮)

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「劇場の神様 極付丹下左膳」
原田宗典・林不忘 原作
大谷亮介 脚本・演出

大谷亮介さんの舞台は、東京壱組の頃に「チャスラフスカの犬」を1度見に行ったことがある。もう10年以上昔の話だが、今も記憶は鮮やかだ。舞台づくりのうまさ、役者さんの熱演、感動的なラストシーンへとストーリーが収斂されていく過程・・・今まで見たうちで(とはいっても、たいした数を見ていないのだが)ベスト3に入る舞台だった。
その大谷亮介さんの脚本・演出だというので見に行ったのだが、やはり文句のない出来栄えだった(と、私ごときが言うのも変だが)。
盗癖のある若者・一郎はある座長公演「丹下左膳〜百万両の壷〜」に斬られ役で出演している。大部屋の楽屋は個性あふれる役者たちが集まり、舞台よりもにぎやかだ。しかし、"部屋頭"の先輩役者が座長にもらったローレックスを自慢したことから、一郎の盗癖が頭をもたげ・・・
これは舞台役者の物語だ。芝居に魅せられ、どこまで続くかわからない貧乏暮らし。いろんな噂や人間関係に傷つきながら、役者はそれでも芝居がやめられない。おまけに舞台というのは生き物で、1回1回出来栄えが違う。しかし、何度も上演するうちに、中にはまるで「神様が降りてきた」ように、奇跡的に素晴らしい出来ばえの日があるという。そんな日は日ごろの役者同士の不仲も嫉妬も関係ない。最高の舞台を共有できた喜びに、全身で浸ることができる。本作でもこの「神様が降りた舞台」が効果的に使われていたが、そのあたり映画の「恋に落ちたシェイクスピア」とダブって見えた。
一郎のモノローグを挟みながら展開するストーリーはテンポがよく、セリフも実に自然で効果的。ラストはなんとなく読めてしまうが、じんわりと温かい気持ちにさせてくれる。
主役の岡本健一さんは、以前からその色気が気になる存在だった。もう若者とはいえない年齢だと思うのだが、本当に若々しい。座長役の近藤正臣さんはさすがにお上手。女優にあこがれ、一途にがんばる女の子役の山田まりやさんもなかなかハマッていた。
(上演期間・2005年1月5日〜23日/THEATRE 1010)
(2005・4・19 宇都宮)

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「たかがヤクザ、されど極道」
武田直樹 脚本
飛野悟志 演出

シアター・バロックの「踊るやくざシリーズ」第9弾。
9回も続くヤクザものってどんなんだろう?という興味で見に行った。
開演前のお客の出迎えから、もうヤクザになりきり。強面のおにーさんが腰をかがめて挨拶してくれるので、お客もちょっとしたヤクザ気分を味わえる。なるほど、公衆の面前でここまで崇められると確かに気分いいだろうなと、タテ社会の快感に触れることができた。
お客さんは常連が多いらしく、楽屋ネタも結構多い。コアなファン同士、上演前のおしゃべりにも花が咲いていた。このあたり、関西の劇団ファントマが思い出されてなつかしい。
お芝居の内容自体はどうということもない。ストーリーもごく大まかなものがあるだけなので、上演時間の大半は枝葉の部分に費やされる。途中にダンスを挟み(だから踊るヤクザなのかと納得)、お決まりの(これまでのシリーズを見てないが、きっとお決まりだろうと思う)人情オチの大団円まで、コントが延々つながっていく印象。2カ月に1回の新作上演と聞き、それは大変な作業だなと思っていたが、これならできるかもと納得した。
こういった作品を上演した場合、そのスジの方からの反応はどうなのだろう? 9回もシリーズを重ねているのだから、1度や2度は接触があったはず。もちろん好意的に描いているわけだが、どうもマンガの延長のような甘さが目につく内容だし、本物の世界はこんなに甘くないとクレームのひとつも届きそうなのだが…
ストーリーそのものより、楽屋話が聞きたい。そう思う私は、芝居よりも役者という人種そのものが好きなのかもしれないと、答えのないいつもの自問自答に落ち着いた。
(上演期間・2005年3月11日〜13日/カメリアホール)
(2005・4・18 宇都宮)

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「三人姉妹」
作  アントン・チェーホフ
演出 ロバート・アラン・アッカーマン

言わずと知れたチェーホフの名作だが、不勉強のため原作も読んでいなければ舞台も見たことがない。休憩1回を挟み、4幕3時間半という長丁場にやや腰が引け気味ながら臨んだところ……やはり名作は名作だった! 味わい深いセリフと静かだが説得力のあるストーリー。ひとりひとりのキャラクターがしっかりと確立され、ラストまで飽きさせることがない。
オルガ(奥貫薫)、マーシャ(中川安奈)、イリーナ(粟田麗)は地方の地主館に住む仲のよい三人姉妹。両親はすでに亡く、オルガは教師として働き、マーシャは平凡な教師と結婚、イリーナは近くに駐屯するロシア軍旅団の若手将校から求婚されている。館にはいつも親しい顔ぶれが集まり、食事会やパーティが催されるものの、昨日と同じ顔ぶれ・昨日と同じ会話の繰り返しに、みな閉塞感を抱いていた。そんなところへモスクワから新たに旅団に着任した大佐が登場する。やがて大佐とマーシャはひそかに想い合うようになり……
当時のロシアの社会情勢は他の作家の作品からも窺えるが、ここでも特権階級ならではの悩みや満たされない想いが登場人物から吐露される。あらゆる労働は使用人に任せ、パーティや読書以外、なにもすることがない特権階級の人々。登場人物のひとりが、まるで「海外旅行に行きたい!」と訴えるように「労働がしたい!」と叫ぶシーンは、ないものねだりの真骨頂だ。本当の貧しさ、労働の真のつらさはそんな甘い考えで耐えられるものではないと、作者の声が聞こえてくる。
主役の姉妹それぞれの人生模様を、我が身に重ね合わせて見てしまう女性も多いのでは。長女は長女らしく家を守り、次女は行動力が災いしてか早過ぎた結婚を悔い、可憐な三女はなかなか結婚に踏み切れない。中でも、三女が時折口にする「モスクワへ行きましょう」のセリフが象徴的だ。モスクワに行けば、なにかが変わる。さして愛してもいない相手との結婚を受け入れなくても、向こうから人生に転機が訪れる。安易だとわかっていても、そう考えることで一時的に救われる。満ち足りない現状を打破したいとき、考えることは今も昔も日本もロシアも同じだ。
ホンがしっかりしていると、見ている側にもブレがなく、長い上演時間も苦にならない。長々としたひとりゼリフも多いが、役者さんはみなしっかり自分のものにしていた。印象に残ったのは三人姉妹の弟アンドレイの嫁ナターリャ役の吉本多香美さん。ナターリャはエキセントリックでイヤな人物像だが、役柄としては逆にオイシそう。吉本多香美さん、奥貫薫さん、粟田麗さんはオーディションで選ばれたそうで、舞台全体に意気込みが感じられた。
(2004年12月16日〜29日/ベニサン・ピット)
(2004・12・27 宇都宮)

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「8人の女たち」
作  ロバート・トーマス
演出 江守 徹

フランス映画「8人の女たち」を観たとき、内容よりもその豪華キャストに驚いた。主役級の女優をズラリと並べ、顔ぶれだけで見せてしまう。ところ変わって、東京・天王洲アイルで演じられる舞台「8人の女たち」のキャストにもビックリさせられた。映画でカトリーヌ・ドヌーブが演じていた館の女主人役を木の実ナナ、ファニー・アルダンが演じたその義妹役を山本陽子、物語の狂言まわしである娘役に佐藤江梨子、その妹役をソニン、ベテランメイド役を岡本麗といった具合。これはもう、地方公演ではあり得ないキャスティングだ。
あの江守徹さんの演出だが、もともとがロバート・トーマスの戯曲なので、ストーリーは映画と変わらない。舞台セットも映画のイメージが強く、映画を見てこの舞台に足を運んだ観客には馴染みやすかっただろう。映画にあった各出演者の歌のシーンは江守演出では「なし」。映画を見ていてあのシーンで歌わせる必要性を感じなかったので、これには賛成だ。
出演者については、木の実ナナさん、山本陽子さん、岡本麗さん、毬谷友子さんといったベテラン勢は安心して見ていられる。サトエリ、ソニンといった若手も一生懸命がんばっていた。特にソニンはしっかり声が出ていて、役者としても充分やっていけるところを見せてもらった。しかし、この作品でいちばんオイシイ役どころは、女主人の妹の居候オールドミス役。映画ではイザベル・ユペールが演じ、さすがの演技だったが、この舞台での安寿ミラさんはややパンチ不足に思えた。全体を引き締める祖母役には、当初加藤治子さんが予定されていたが、周知のとおり病気のため降板。残念だが、代役の喜多道枝さんもさすがにお上手。急な登板だったにもかかわらず見事にハマっていた。
    随所に散りばめられた小さなどんでん返しは楽しめるものの、全体にムリな設定のストーリーに想像どおりのラスト。ここはキラ星のような豪華女優陣を堪能し、リッチな気分を味わうのがいちばんかもしれない。
(2004年11月19日〜12月12日/アートスフィア)
(2004・12・27 宇都宮)

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「セメタリー・クラブ」
作 アイヴァン・メンチェル
演出 竹邑類

エスター、ドリス、ルシールは夫に先立たれた熟年仲よし3人組。毎月墓参りを理由に集まっては、おしゃべりに花を咲かせる。長年の友情に支えられ、気のおけない関係ではあるが、男性を追いかけ回してばかりのルシールと3年前の夫の死から立ち直れないドリス、その間で揺れるエスターと、3人の老いの生き方は大きく異なる。そんなある日、エスターに気になる男性が現れ・・・
老いを迎えたとき、配偶者の死は生き残った片割れにとって避けて通れない試練。このお芝居では3人の女性が三者三様の対処方法を呈示して見せてくれ、そこに彼女たちの人生そのものがオーバーラップする。観客は自分がドリスになるか、エスターになるか、はたまたルシールになるか、想像しながらセリフを味わう。そして、3人の変わるはずのない友情が、"抜け駆け"する者が現れたときにどう変わるのか、やや複雑な心境で見守ってしまう。
どこかで聞いたことのあるタイトルだと思っていたら、1993年にエレン・バースティン主演で映画化されたらしい。
アメリカ人が演じれば、もっとテンションが高くてストレートな女性像が見られたのだろうが、日本人がついていけるのは「節操のある女性」像。ルシールのように色ボケ気味に男性を追いかけるおばあちゃんは、まだ日本では認められそうにない。かといってドリスのように毎日泣いてばかりでは辛気臭い。自然、中庸を行くエスターに感情移入してしまうのだが、夫のいない空白を埋めてくれるはずの男性を一度は失ってしまうのが見ていてつらい。
しかし、過ぎてしまえば懐かしく思い出せるのが人生。ラストシーンはからだの中が浄化されるような涙を流すことができた。
エスターに丘みつ子さん、ルシールに新藤恵美さん、ドリスに汀夏子さんという配役もぴったり。特に新藤恵美さんが生き生きと演技されていたのが印象的。 "掘り出し物"(といっては失礼だが)だったのは、エスターの恋人候補役の仲本工事さん。淡々とした口調が誠実さを感じさせ、胸に迫るものがあった。
(2004年11月4日〜7日/ル・テアトル銀座)
(2004・11・21 宇都宮)

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「歌劇 人情酸漿蛍」
演出 久世光彦

沢田研二さんが演出の久世光彦さんと組み、毎年上演する舞台の第4弾。
昭和初期の東京・日本橋。貧乏長屋の大家と傾きかけた老舗呉服屋の娘が、ほたるの舞う水辺で出会い、恋に落ちる。親子ほどの年齢差、呉服屋を立て直すために見合いをすすめる母親など、障害は多いが恋は静かに進行し・・・
沢田研二さんは、私の世代にとって「ザ・ベストテン」の常連というイメージ。劇中の歌声がよく知るジュリーの声そのままで(当たり前だが)、やっぱり上手い。ついでに「勝手にしやがれ」を聴きたいと思ってしまったのは私だけ?
相手役の石田えりさんは実年齢よりかなり若い役どころだが、これが可愛くて可憐で全く違和感がないのだ。さすが女優! 映画や写真で見る印象とはまるで違う彼女が楽しめた。
お芝居の内容は歌あり、笑いありの人情喜劇と説明されていたが、笑いはともかくとして少しホロリとさせられるシーンもあった。現在の東京・日本橋にあのような下町の面影はないが、人情長屋にノスタルジーを感じるのは関東も関西も同じ。恋の逃避行がハッピーエンドに終わらないのも定石どおりか。
余談だが、私の席の前にはグループサウンズ時代からのジュリーファンらしきおばさまたちが陣取っていた。彼女たちがお芝居に大笑いしたり泣いたり、ジュリーの歌に聞き惚れたりしている姿を見ると、ひとりのタレントをここまで長期間応援できるのもいいもんだなと素直に思える。そのためには、タレントはアイドル歌手から流行歌手、そして舞台俳優と目先を変えながら生き残っていかなければならなかったが、生き残る人の方が圧倒的に少ない世界にあって、おばさまたちは実に幸せ者だ。
(2004年7月30日〜8月15日/シアターコクーン)
(2004・10・17 宇都宮)

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「レンガ」
作 倉本 京子
演出 祐崎 ひとみ

劇団を超えて集まった演劇ユニット・感動ファクトリーの第2回公演。
映写技師になるため3年間の約束で恋人と別れた宮田。2人の思い出の場所・アケボノシネマで3年後の再会を約束するが、その日ついに恋人は現れなかった。40年後、宮田はアケボノシネマの館長として、古い名画座を守りつづけていたが、時代の流れに逆らいきれず、閉館を決意する。アケボノシネマの常連客たちは閉館に反対し、なんとか存続を図ろうと知恵を絞るが・・・
若い演劇ユニットなのに、思いもかけず古い芝居を見せられた。
映画館のロビーに場を固定し、繰り広げられるのは人情劇。古い名画ばかり再上映する名画座はビデオが浸透した90年代以降見かけなくなったが、昔は大阪のあちこちにあり、私も某名画座の会員になってよく通った。「風とともに去りぬ」も見たし、「アラビアのロレンス」も見た。安くて空いていて、映画好きには嬉しいスポットだった。閉館と聞いて淋しく思ったものだが、このシチュエーションが21世紀の今も通用するのか、少し不思議に感じてしまった。
登場人物構成が映画館の常連中心なのはともかくとして、演じる役者さんがみな同じような年頃なのが見ていて苦しい。主人公の宮田はもう少し年配の方がいいし、かなりムリのある女子高生役のキャスティングもあった。有志が集まってのお芝居だから同世代ばかりになってしまったのだろうが、ベテラン役者のキャスティングを考えてもよかったのでは? しかも演技がしっかりできているのは、喫茶店のママ役の女優さんだけだった。
ストーリーもありきたりで、あまりにも予想どおり。死んだ恋人がこの日に現れた理由が最後まで不明だし、死んでいるなら宮田以外の人間には見えないぐらいの工夫が欲しい。もっと生身の人間を感じさせない演出はできなかったものか。
死んだ人との再会は、どんな芝居でも泣けるもの。それに頼らないオチが欲しかった。
(上演期間・2004年5月22日・23日/シアトリカル應典院)
(2004・6・2 宇都宮)

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「リアルオーディション!」
原案・音楽 つんく♂
脚本・演出 樫田正剛

同い年の友人から「あややのミュージカルの招待券があるんだけど、一緒に行かない?」と誘われ、話のタネに出かけて行った。
会場に入る前に恐れていたのはその客層。男子中高生ばかりだったらどうしよう。オバサンの2人連れは思いっきり浮いてしまうではないか。かといって周囲が子どもばかりでもツライ。一応芝居を見るつもりで行くのだし・・・と、恐る恐る会場に足を踏み入れたが、意外に客の年齢層が高い。白髪のおじいさんまでいる。ひょっとして私たち同様、招待券組か。
ミュージカルの内容はごく単純。雲隠れした父親の借金を肩代わりするために、人気音楽グループの新メンバー募集オーディションに応募した主人公が、何度かオーディションを繰り返すうちにプロ意識にめざめていくというストーリー。ラストのオーディションの合否は、その日のあややの出来次第で変わるらしく、ミュージカルというよりバラエティを見るような構成だ。
松浦亜弥をはじめとする出演者たちは一生懸命演じているのだろうが、なにせ音楽が平凡。振付もかなり古い。ブロードウェイばりに難しくしたら、ハロプロのタレントでは演じられないのはわかるが、あややが見れればいいってもんでもないと思うが。
2時間弱のミュージカルの後は、30分のライブタイム。客席はここでウオーッと盛り上がる。あややグッズを身につけた男性(この年齢層が結構広い。10代から30代後半までか)が、あややの歌に合わせて歓声を挙げ、その場で踊りだす。普段はとても踊りそうにない男性があややの歌に合わせてピョンピョン飛び跳ねる様は、アイドル応援に名を借りたストレス発散の場に見えなくもない。まさに、ステージを見るより客席を見て楽しむ時間帯だ。
それにしても、この内容でS席9800円はいかにも高い。これではいくらあややファンでも中高生は買えないではないか。ブロードウェイS席が100ドルであることを考え合わせても、えらい価格設定だと思う。儲けてまんなぁ、つんく。
(上演期間・2004年2月18〜22日/厚生年金会館芸術ホール)
(2004・3・18 宇都宮)

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「CLAW GLOW 〜大江山鬼伝説異聞〜」
作・演出 伊藤えん魔

なんだかんだ云いつつ、ファントマのお芝居にいちばんよく足を運んでいる。
相変わらずのギャグ・パロディー路線で、今回はタイトルにもあるように大江山の鬼伝説に題材をとった。
京の都を脅かす鬼を退治する任務を受けた源頼光の部下・渡辺綱と坂田金時は、夜回りをするうちに茨木童子という不思議な人物と知り合う。折りしも、政治への興味を失った帝の周囲で、怪しい事件が頻発し・・・
不動の主演女優・美津乃あわさん演じる茨木童子は伝説上の人物だが、それ以外の主な登場人物はほぼ実在の人ばかり。蝉丸や安倍晴明まで登場し、いつもながら多少の時代のズレは気に止めない芝居づくりだ。
ハードボイルドを標榜する劇団だけあって殺陣のシーンが多く、動きのある舞台だ。ときどきギャグを交えながらストーリーが進行し、終わってみれば2時間半の長丁場。休憩なしで2時間半を退屈させない展開はスゴイ。芝居を見て人生について沈思黙考したい人には向かないが、イヤなことを忘れてパッとストレス発散したい人にはオススメだ。
裏方に目をやれば若い団員の姿も多く、グッズ販売やプログラム販売の若手スタッフも数多い。劇団代表の伊藤えん魔さんはおそらく私と同世代で、彼の芝居づくりはどう見てもマンガ・アニメの影響を大きく受けている。なのに今の若者をこれだけ惹きつけるということは、あの時代のマンガ・アニメ文化のレベルがいかに高かったかという証明なのだろうか。
(上演期間・2004年2月4〜9日/AI・HALL)
(2004・2・11 宇都宮)

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「飛ぶように過ぎゆく」
作・演出 岩崎 正裕

劇団太陽族の公演では、以前オウム真理教問題を描いた「ここからは遠い国」で、脚本家の岩崎正裕さんの力量を思い知り、今回も期待しながら足を運んだのだが・・・残念ながら、ストーリー進行とともに広げた風呂敷をラストでまとめきれておらず、散漫な印象が残った。
意識不明のまま海に浮かび、ある船に救助された男が意識を取り戻した。ところが男には自分の記憶がない。折りしも船は地震で沈没した日本を離れ、台湾に向かう途中。日本を脱出したがる難民が後を絶たない中、不審な貨物と難民女性を乗せた船上で、さまざまな人間模様が繰り広げられ・・・
舞台は船の甲板のみ。最近の芝居に多い場転換が一切なく、日本が地震で壊滅状態になったことや、日本人が難民となって近隣のアジア諸国へ押し寄せていることが、出演者のセリフのみで説明される。「ここからは遠い国」もそうだったが、昔ながらの場固定の芝居はセリフの力・役者の力が試され、見る側にも想像力が必要だが、芝居本来の楽しさを感じさせてくれる。
残念なのは、ストーリーに散りばめられたナゾ解きの処理。芝居と同時に始まるナゾが日本壊滅だけではなく、船長の妻・珠も不思議な存在だ。彼女の正体が終盤までわからず、少しイライラさせられた。人間でないのはOKだが、それならもう少し説明があってもいいのでは。また、もうひとつのナゾ・海で拾われた男の正体が期待外れで、「ホントにそのオチでいいの?」と思ってしまった。
役者さんはみな安定した演技で、特にガードマン役の森本研典さんが中年男のいやらしさを存分に感じさせてくれた。珠役の田矢雅美さんもフシギ少女のような役どころがよく似合う。それぞれ適材適所のキャスティングはさすがだ。
(上演期間・2003年12月19〜21日/AI・HALL)
(2003・12・29 宇都宮)

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「フィレモン 地下牢の道化」
作  トム・ジョーンズ
音楽 ハーヴィー・シュミット
訳・演出 勝田 安彦

私が住む大阪府のお隣・兵庫県では芸術、特に舞台芸術の振興に力を入れている。おかげでいろんなお芝居が楽しめ、一鑑賞者としてはとてもありがたい。今回も平成17年秋の兵庫県立芸術文化センター開館に向けてのソフト先行事業の一環。立派な箱ばかり目立ち、中で上演するソフトが貧相な劇場が目立つ中、兵庫県が充実したソフトを提供できることを示した公演だった。
3世紀、ローマ帝国統治下の町・アンティオケ。こそ泥の常習犯である道化役者コキアンは、ある日ローマ総督マーカスから「キリスト教の司祭フィレモンになりすまし、キリスト教を否定してほしい」と依頼を受ける。依頼に応じればこれまでの罪状は水に流すといわれ、喜んで応じたコキアンだが、地下牢でフィレモン神父を演じ続けるうちに、やがて本物の信仰が芽生えはじめ・・・
「ファンタスティックス」で有名なトム・ジョーンズ&ハーヴィー・シュミットコンビによるミュージカルの日本語訳版。ニューヨークでさんざん本場のミュージカルを見てきた後だったので、日本のミュージカルに腰が引け気味だったのだが、予想以上の歌唱力を楽しめた。
まずローマ総督府の軍人たちにナチスの軍服を着せた演出に、のっけから驚いた。7人という絞り込まれた出演者を効果的に見せるための舞台装置も興味深い。町の広場・コキアンの住み家・地下牢と場面が変わっても違和感がなく、舞台の不思議な魅力を改めて感じることができた。
芝居の見どころはコキアンがフィレモン神父に同化していく過程。役者の熱演をひしひしと感じたが、もう少しその過程に工夫が欲しかった。
それにしても、いいお芝居なのに空席が目立ったのが残念。集客力のなさがお役所企画の難点だと以前から思っていたが、日曜の昼間にあの埋まり具合では役者&スタッフが気の毒だ。せっかくいい劇場で上演しているのに、もったいない話である。
(上演期間・2003年12月6・7日/新神戸オリエンタル劇場)
(2003・12・29 宇都宮)

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「ウーマン・イン・ブラック 〜黒い服の女〜」
原作 スーザン・ヒル
脚色 スティーブン・マラトレット
演出 ロビン・ハーフォード

ロンドンでロングラン上演されたゴシックホラーの名作が、上川隆也・斎藤晴彦の2人芝居で再演された。
登場するのは初老の男キップス(斎藤晴彦)とロンドンのある劇場の若手演出家(上川隆也)。キップスの口から語られる恐怖の体験は、若かりし頃仕事で訪れたイギリスの片田舎の屋敷で出会った喪服の女の幽霊の物語だった・・・
2人の役者が複数の役柄をこなす2人芝居は、役者の演技合戦が面白い。斎藤晴彦さんはさすがに複数の役柄を演じ分け、場面転換のたびにワクワクさせてくれた。上川隆也さんは若手演出家と若き日のキップスの2役。斎藤さんほどの演じ分けは見られなかったが、客席を駆け回る熱演だった。
2人芝居とはいえ、セリフなしの「黒い服の女」も登場する。演出はロンドン公演と同じロビン・ハーフォードだが、この「黒い服の女」の見せ方がウマイ。舞台上のこととはいえ、恐怖感を感じた。思わず叫び声を挙げた女性客がいたほどだ。
途中でラストのオチが見えてしまうストーリー。にもかかわらず、次のシーンへと観客を引っ張っていく力を感じるのは、舞台美術・演出・役者など、スタッフ全員の力が結集されて生まれた芝居そのものが持つパワーか。
ちなみに、客層は上川ファンとおぼしき女性が9割方を占める。上川隆也の色気は今更述べるまでもなく魅力的。ファン層も静かに彼を見守るタイプの女性が多いようで、好感が持てた。
(上演期間・2003年9月9〜17日/シアター・ドラマシティ)
(2003・10・17 宇都宮)

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「宇宙の旅、セミが鳴いて」
作 鈴江俊郎
演出 高瀬久男

京都ビエンナーレ2003演劇公演。2000年より行われていた俳優養成事業「現代演劇俳優セミナー」と連動し、鈴江俊郎さんが書き下ろされた作品だ。企画には杉山準さん、松田正隆さんが参加されている。
まず舞台美術が面白い。かつて小学校の校舎だった建物の講堂で、4方向に客席を配した中心の空間がステージ。ハケと入りは4方向の出入り口から。ステージには木製の机とイス。そして、床には現実世界と仮想空間を区切るように白い玉砂利が敷かれている。
舞台は1年半に及ぶ宇宙の旅を終えて、地球に帰り着こうとしている宇宙船の中。宇宙旅行の目的は、汚染された地球上では作れない農作物を宇宙船内で大量生産すること。ところが、帰還直前に地球でクーデターが起き、宇宙船運行会社も消滅してしまう。どこへ帰ればいいのか、乗組員の意見は割れ・・・
船長、操縦士、農作業担当の4姉弟、医師、神父、調理師など、それぞれの役割を担った乗組員たちが織り成す人間模様をタテ糸に、地球規模のクーデターというアクシデントをヨコ糸に、ストーリーが展開する。男5人、女6人の船内には船長の恋愛禁止命令にも関わらず長い航行とともに恋愛感情が入り乱れ、宇宙船の中というよりどこかの会社のオフィスラブ風景を連想させた。恋愛の背景に、父親の愛情に飢えた子ども時代の反動や、マザーコンプレックスが透けて見えるのもいい。
残念なのは、「帰る場所がない」という重大なアクシデントが起きた後の人間模様が描ききれていないことだ。地球が核戦争で滅んだ、環境汚染が進み人間が生きていけない・・・といった極限の理由ならわかるが、クーデターが起きて日本が共産政権になってしまった、民間会社の運行する宇宙船に帰る場所がない、という設定は少し緊迫感に欠けるのではないか。共産政権でも宇宙船の着陸ぐらいはできるだろうし、命までは奪われないと思うのだが。理由が客席に迫らないためか、パニックを演じる役者の演技も少しカラ回り気味になり、惜しいところだ。
今回出演された役者さんは全員オーディションで選ばれたそうだ。そのせいか若手ながら全員安定した演技で、演技は最後まで安心して楽しめた。
(上演期間・2003年10月4〜13日/京都芸術センター講堂)
(2003・10・13 宇都宮)

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「ファンク・ラブ」
作・演出 梶原俊治

劇団自由派DNAの第8回公演。
ニューヨークでミュージカル三昧した後、日本で舞台を見る機会がないなと思っていたところに舞い込んだ招待状。喜んで行かせていただくことにした。
劇団自由派DNAといえば、以前1度観たことがあるはずなのだが、内容が思い出せない。公演が始まるとさすがに思い出したが、ストーリーらしいストーリーがなく、ミニコントのようなお芝居をつなげてテーマを綴っていくタイプの舞台だった。今回も全く同じ。芝居の質に驚くほど変化がない。
ストーリーもないし、傑出した役者さんもいないから、印象に残らないのは当たり前。サビのセリフである「おなかがすいたわ。ドラマをちょうだい」もありきたりで、何十回と繰り返されると食傷気味。以前は見えなかったテーマが今回は少し見えたのだが、「愛に傷つくのを恐れる若者」像に目新しさがない。
それにしても今の若者たちのなんと傷つきやいこと! 優しく争いを好まず、大人に噛みつくこともなく、学校でも職場でもカドを立てず丸く収め、そこそこの悩みにそこそこの言葉で満足してしまう。日本のあちこちに路上詩人が現れる現象も、こんな若者需要に支えられてのことかと納得した。
(上演期間・2003年8月22〜24日/一心寺シアター倶楽)
(2003・8・29 宇都宮)

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「カラフル」
作 森 絵都
脚本 矢田 嘉代子
演出 黒澤 隆幸

2000年度大阪新劇フェスティバルで劇団如月舎が作品賞を受賞した作品。
天国でぼんやりと過ごしていたラッキーソウルは、天使プラプラから自殺した中学生・小林真の魂に入り込むよう命令される。真の両親や兄、クラスメートたちと接するうちに、   は真の自殺の真相に徐々に近づいていく。その一方、親しい友人もでき、死に急いだ真を惜しむ気持ちも芽生えはじめ・・・
2幕約2時間の、わかりやすいお芝居だった。一見バラバラに見えた家族が、実は真の自殺に深く傷ついていたこと。真がイジメられても無関心に見えたクラスメートが、実は真の画才を高く評価していたこと。込み入ったストーリーも伏線もないが、「死に急ぐな」というメッセージは明確に伝わってくる。
ただ、演技もセリフも衣装も構成も全部古めかしい。時代を超えて変わらない普遍的なものと、今どきの中学生とのギャップをもっとうまく処理できないものか。クルクル回転するらせん階段のような舞台装置は、面白いアイデアだと思った。
(上演期間・2003年2月8日/ワッハ上方)
(2003・2・17 宇都宮)

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「誰もがリーダー★誰もがスター★」
作 小椋佳
演出 宮崎渥巳

小椋佳が音楽監督を務める音楽劇集団アルゴのファミリーミュージカル第16回公演。
小学5年生から高校3年生までの子役が18人出演し、ある女子中学バスケットボール部の夏休み合宿の様子を、歌とダンスで綴っていく。
子ども向けミュージカルによくあるパターンだと思うが、テーマは「夢」「友情」といったところ。コーチ役の女性教師が子どもたちを踏み台にして出世しようとする下りが、唯一ドラマらしい部分だ。
それにしても子役たちのダンスのうまさには驚かされる。歌もそれなりに聴けるし、日本のミュージカルもここまで底上げされてきたのだなぁと、感慨を持った。劇団四季の「キャッツ」を初めて観た20年近く前、「これがミュージカルの舞台というものか」と感動したのがウソのようだ。
会場には親に連れられた小学生がたくさん観に来ていた。子どもたちというのは芝居シーンはザワザワしても、歌やダンスが始まると途端にステージに注目する。私も小学1年生の姪っ子を同行したのだが、ストーリーはよく理解できないものの歌やダンスは真剣に見入っていた。私が小学1年生の頃は日本にミュージカルは存在せず、お芝居に連れて行ってもらえることもなかった。当たり前のようにオールCGの映画を見、ミュージカルを観劇する、今の子どもたちが享受する文化の豊かさに改めて感慨が湧いてくる。
(上演期間・2002年8月24〜25日・近鉄劇場)
(2002・8・28 宇都宮)

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DIRT1600「ライアー・ガール」
作・演出 ラサール石井

グラビアクイーン・小池栄子の舞台初主演で話題になった「ライアー・ガール」を観た。
仕事にも家庭にもくたびれた中年男が謎の薬を飲んだところ、翌朝目覚めたらナイス・バディの女の子に変身していた。家族も会社の人間も、もちろん彼だとわからない。どうやってその場を誤魔化し、どうやって元の姿に戻るのか、まわりの人間を巻き込んで騒動が続いていく。
共演に持田真樹、岡田浩暉、角田ともみ、あめくみちこなど豪華な顔ぶれを配し、見どころの多い舞台になった。その中で、主演の小池栄子はまだまだ荒削りな部分が多いにせよ、からだを張っての熱演だった。生の舞台で見ると、大柄で声のトーンが低いところなど男性っぽい印象を受ける。遠目にもわかる胸の大きさだけが、グラビアクイーンのイメージを主張していた。
持田真樹は小柄な容姿、細くて高い声がまるで少女のよう。他に坂本あきら、あめくみちこのベテラン2人はやはり安定してうまかった。
「ある朝目覚めたら…」という"変身モノ"はよくあるパターンだが、これに家庭崩壊、テレビ業界の内幕ネタ、旧態依然としたサラリーマン社会を織り交ぜて、最後まで退屈せずに楽しめた。場面転換もスムーズだったし、照明が印象的。出演者の顔ぶれといい、「ラサールさんは果たしてどれぐらい自腹を切ったのか?」と思わず考える中身の濃さだ。儲けることが難しい「お芝居」という表現方法が、これからますます功成り名遂げた著名人の自己表現の場になっていくのではないか…と、いらぬ心配をしてしまった。
(上演期間・2002年8月16〜18日・近鉄劇場)
(2002・8・28 宇都宮)

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「黒いチューリップ」
作・演出 伊藤えん魔

放送作家・伊藤えん魔氏率いる劇団ファントマの人気作品の再演。
有名作品のパロディをベースに、ギャグやコントを織り交ぜながら進めるストーリー展開はファントマの十八番。この作品も怪盗ヒーロー「黒いチューリップ」をメインに「シラノ・ド・ベルジュラック」、「三銃士」、「ノートルダムのせむし男」を絡ませた。
「黒いチューリップ」とノートルダムのせむし男カジモド、伊藤えん魔氏演じるダルタニアン、腹筋善之介氏演じるシラノ、そして仇役のポリニャック伯爵夫人と善人役のロベスピエールと、活躍する時代がバラバラな登場人物たちをキャラだけ引き抜いて寄せ集め、例によってハチャメチャな内容だ。
ファントマのお芝居は結構好きで何度か足を運んでいるのだが、ハコ(劇場)が大きくなると面白さが削がれてしまう。今回は近鉄小劇場でちょうどいい広さのように思うのだが、それでも扇町ミュージアムスクエアで見たときのあの臨場感や一体感が遠のいた印象だ(これって小劇団全体に通じる宿命みたいなものか?)。ファントマの作品はおしなべて軸になるストーリーが弱いだけに、余計その印象が強い。
ストーリーの弱さを補うためにムリに物語性をつけようとしてか、クライマックスからラストの間が妙に長く、やや退屈。観客はみな笑いを求めてファントマのお芝居に足を運んでいるのだから、必要以上にスペクタクル活劇にしなくてもいいのではないだろうか(ハコが大きいと、ついいろいろやりたくなるのかもしれないが)。伊藤えん魔氏の多才ぶりには常々敬服しているのだが、笑いに徹することの難しさ、ストーリーで笑わせることの難しさを改めて痛感した。
(上演期間・2002年5月31日〜6月2日・近鉄小劇場)
(2002・6・5 宇都宮)

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「ここからは遠い国」
作・演出 岩崎正裕

劇団太陽族を主宰する岩崎正裕が、オウム真理教事件に触発されて1996年に書き下ろした作品の再演。第4回OMS戯曲賞大賞受賞作品。
長南家は小さな工務店を営むごく普通の家庭。一家の中で唯一異彩を放つのは、倉庫の軽トラックの中で寝起きする息子だが、実は彼は宗教団体の施設から逃げ出してきた元信者だった。息子をつけ回す公安の男、信者仲間、そして騒動のさなかに亡くなった母の幽霊がからみ、信仰と現世、過去と現在、生者と死者が交錯しながらストーリーが進行する。
「人はなんのために生まれてきたのか?」という永遠のテーマに悩みながら、生き方を模索する息子。その息子にそれぞれの接し方を見せる父親、姉、妹たち。ごく普通の家庭で、ごく普通に育った若者がカルト教団にはまる恐ろしさが、じわじわとターゲットを絞りこむように描かれている。
現実離れした事件の背景にある、地味でほろ苦い現実の描き方が秀逸だ。姉妹のセリフのひとつひとつ、日常の「食べて・寝て・人とかかわる」エピソードがリアルで、余計オウムの引き起こした事件が信じられなくなる。
にしても、オウム真理教の一連の事件って、いったいなんだったのか? 現在も続いている信仰の根源にあるものはいったいなんなのか? 答えはとても2時間のお芝居の中では描ききれない。
(上演期間・2002年4月12〜14日・伊丹AI・HALL)
(2002・4・18 宇都宮)

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「地球人大襲来」
作・演出 ウォーリー木下

劇団☆世界一団によるオリジナル作品。
85個の大陸と3500種もの宇宙人が住む惑星エンドに、20分20秒後地球人の大船団が攻めてくる。その最後の20分間を、11のストーリーを同時展開させて描いた多重構造ストーリー。
特に数えていないが、登場人物の数は数十人にのぼると思う。それを11人の役者さんが入れ替わり立ち替わり演じるわけだから、体力勝負の舞台である。エピソードが多すぎて、最後の収拾がつけにくいのは「マグノリア」などの映画と同じ。上演時間が1時間45分を過ぎて、ラストへの収束に向かう頃になると、「まだオチないのか?」とジリジリし、私の周りでも時計を見る人が急に増えた。いずれにせよ、2時間20分の上演時間は長すぎる。
地球人は一切登場せず、出てくるのは得体の知れない宇宙人ばかり。被り物などは使わず、役者がからだで宇宙人の姿を表現するので、見る側にも想像力が必要だ。「スターウォーズ」などSF映画の影響の大きさが窺える。
しかし、表現形式に凝るあまり、作品中で人間(宇宙人?)ドラマが描けていない。11のストーリーがあっても、一応ドラマらしきものが見えるのはほんの一部。あとはドタバタとシーンが入れ替わるだけで、客席はストーリーの展開についていけていないと感じた。だからエピソードの数を削り、ひとつひとつを深く描いた方がいい。見る人の心に残るのは人間ドラマがあるストーリーだけなのだから、
(上演期間・2002年1月23〜27日・梅田HEP・HALL)
(2002・1・27 宇都宮)

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「雪葬の森〜ダイヤモンドの降る夜には〜」
作  和泉 めぐみ
演出 寺阪 務

サスペンス専門中心の劇団『P・T企画』の第12回公演。
舞台は森の中の教会。教会所有のダイヤモンド鉱山の売買をめぐり、シスターとその妹、バイヤーたち、パイプオルガン奏者、宝石鑑定士らが集まっている。ところが、この地方には雪葬の伝説があり、その言い伝えのとおりに人が次々に殺されていき…
連続殺人のモチーフはブラッド・ピット主演の映画「セブン」などにも見られる見立て殺人。言い伝えどおりの殺人が次々と起き、それを推理するのはたまたま事件現場にやって来た元宝石鑑定士(刑事が登場するにもかかわらず)である。
殺人事件の伏線となるのは1年前の鉱山事故。そのため、元宝石鑑定士にナレーションさせたり、回想シーンを突然はじめたり、舞台設定の説明に苦労している印象を持った。それにしても回想シーンでは、もう少し照明や演出に工夫ができなかったのか。あれでは観客はひと目で回想シーンとわからない。
全体に密室というほどの密室にも見えないし、登場人物が恐怖の叫び声をあげるほどには客席に恐怖が伝わって来ない。舞台と客席が遊離しているのはストーリーにムリがあるからか、演出がクサイからか、役者の演技力に難があるからか。
ラスト近くで、ふとフランス映画「クリムゾン・リバー」を思い出した。あの映画のストーリーにもかなりムリがあったが、大金を投じて作った映像でムリがあるものを舞台で表現すると、さらにムリがある。ムリを埋めるには、物語の内なる深さをセリフと演技で表現するしかないが、それも通りいっぺんだったのが残念だ。
(上演期間・2002年1月11〜14日・シアトリカル應典院)
(2002・1・13 宇都宮)

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「PRESENT for…」
原作 松本泰成
脚本 ことぶきつかさ
演出 飛田静男

THEATER@MEN'S WORKSの第5回公演。
それにしても、世の中にはいったいいくつの小劇団があるのか。生まれては消え、消えては生まれ、他の劇団に上演されるほどの作品を残せる劇団が果たしていくつ存在するのか。
ちょうどクリスマス3連休に上演されたこのお芝居も、お約束のようにサンタクロースがキーワード。両親の離婚に悩む少年と、サンタを実在する人物と信じて調査を続ける宇宙人たちがストーリーの軸である……が。オチは最初からミエミエだし、少年の物語も薄い。役者さんたちは一生懸命やっていることはいるのだが、同行した20代の友人の「ウルトラマンショーを長くしたカンジ」という言葉が空しく響いた。
前述の「カデット」を観た直後だっただけに、平和ボケ日本で、悩みらしい悩みもない世代の、なにをお芝居のテーマにすればいいのかわからない迷いだけが残った。
(上演期間・2001年12月22〜24日・よしもとrise-1シアター)
(2002・1・1 宇都宮)

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「カデット」
作  鐘下辰男
演出 日下部佐理

神戸の劇団"風斜"第38回公演。
舞台はジャングルの中、ヤシの葉で葺かれた参謀本部。すでに日本は全面降伏をしたというのに、師団長と参謀は敗戦を認めず、軍事作戦を続けていた。とはいえ彼らは地元ゲリラの抗戦を受けながら、食べ物を捜し回る日々。賄い担当兵は肉を求める師団長の狂気に耐え切れず、自らも狂気の淵に落ちる。狂気の輪が広がる合い間に、欲望のはけ口となるのは地元の娘。彼らは娘を「花」と呼び、「花に水をやる」行為を繰り返すが…
描かれるのは、戦争の狂気と人間の狂気。戦争を拠りどころに生きる人々と、戦争から逃れたいと願う人々がぶつかりあい、ついには血なまぐさい殺し合いに至る。哀れな「花」は狂気の犠牲のほんの一部。人間がここまで残虐になれるのか、ここまで身勝手になれるのか。
物語の中にぐいぐい引き込み、2時間半の上演時間を退屈させないのは、やはり戯曲の力。重いテーマをこれでもかこれでもかと観る者に突きつける。ジャングルに降る雨音が今でも聞こえてきそうだ。また、役者さんたちの迫真の演技には感動させられた。
最後に、プログラムに軍装協力の方のお名前があった。そのおかげか、リアルな軍服姿を見ることができ、会場内には実際に戦場に駆り出された世代の男性がたくさんいらっしゃった。ぜひ、あの方々の感想も聞いてみたい。
(上演期間・2001年12月23・24日・神戸アートビレッジセンター)
(2002・1・1 宇都宮)

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「レストア」
作・演出 梶原俊治

劇団自由派DNAの第5回公演。初めて聞く劇団名で、知った名前も一切なかったが、チケットプレゼントに応募したところ無料招待していただけたので、伊丹AI・HALLまで出かけていった。
これといってストーリーらしいストーリーもなく、ショートコントのような芝居を7人の出演者が順に演じていく、なんだか懐かしいタイプの作品だ。伝えたいテーマも時折チラリと見えるのだが、なんせストーリーがないので心に残らない。目の前の演技が通り過ぎてしまうと、テーマも消えてなくなってしまう。それなりに楽しんで見させていただいたが、1時間を過ぎるとさすがにシンドイ。最終的に約2時間弱の上演時間をよく持たせたものだと思う。
同じくチケットプレゼントで足を運んだらしい60代の女性が、上演中私の隣の席でよく寝ておられた。「あんなのは芝居じゃない」、もしくは「さっぱりわからん」あたりが彼女の感想だろうと推測する。自分が60代になったとき、若い世代の芝居を見て「さっぱりわからん」と居眠りを決め込む前に、理解する努力は一応するつもりでいる。理解できるかどうかは別として。
(上演期間・2001年11月16〜18日・伊丹AI・HALL)
(2001・11・24 宇都宮)

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「兄帰る」
作  永井愛
演出 三村省三

以前から気になる戯曲家だった永井愛さんの第44回岸田國士戯曲賞受賞作品を、神戸の小さな劇団「神戸ドラマ館ボレロ」の公演で鑑賞した。
巨悪ではなく普通の人々、それも「いい人」の中に潜む悪を描きたいという欲求が、この作品を書かせたという。永井愛さんは「悪人が書けない」と常に批評され、ご本人も気にされていたようだ。が、「普通の人々の中に潜む、犯罪にもならず、糾弾もされない悪徳の数々」を描くことにこだわり続け、ついにこの作品で岸田國士賞を受賞された。それだけの価値のある作品だと、しみじみ思った。
ホームレスの兄と16年ぶりに再会し、戸惑う弟夫婦と姉夫婦。兄の再就職先さがしに奔走しながらも、自らの保身と世渡りに汲々とする普通の人々を描いて、3時間近くの上演中も飽きさせなかったし、最後のドンデン返しも予想外。残念だったのは、メインストーリーのインパクトに比べて、サブストーリーがいかにも弱かったこと。弟の妻(兄と並ぶこの作品中の重要人物だ)がひとり息子のイジメ問題に気を揉むのだが、母親の心情は理解できるものの、ホームレスの兄の再就職問題に比べるとパンチ力が弱く、客席(特に男性)も少しダレ気味だった。
今回、神戸アートビレッジセンターを初めて訪れ、神戸のアマチュア劇団のガンバリを知った。演劇で食べていくのは至難の技だが、プロであれアマチュアであれ劇団が生まれ、活動を続けていくには文化的な土壌が不可欠。決して目立たないが、そんな土壌がここにもあると確認するのは本当にうれしいことだ。
(上演期間・2001年10月20〜21日・神戸アートビレッジセンター)
(2001・10・28 宇都宮)

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ストレイドッグ「路地裏の優しい猫」
2001/9/29(土)14:00 近鉄小劇場
作・演出 森岡利行

ハルコは中学生。父のエイジはやくざの用心棒で、実の母は出てゆき新しい母にはなじめない。ハルコは父を許せない気持ちでいっぱいだ。
そんなときハルコは路地裏でアッシというしゃべる猫に出会う。そこからハルコは路地裏の不思議な世界に入り込む。アッシはハルコに彼女が知らなかった父の過去を見せた。
エイジはかつてオリンピックで銅メダルまで取ったボクサーだった。しかし片目を失明してからどんどん転落してゆく。エイジの辛さや彼を取り巻く人達の止むに止まれぬ思いが現在の状況を作ったことをハルコは知る。そこに猫社会の出来事が重なり、「生きていればきっとやり直せる」と言うアッシの言葉にハルコは素直に頷く事ができるようになる。
一旦栄光を手にした者がその座から転落したときの辛さが、一度も栄光を手にしたことのない私にもよく伝わってくる。強いがゆえにその力の扱いかたを間違えたエイジのやりきれない思いもエイジ役の相澤氏の長身の背中から伝わってきてとても切ない。
 このお芝居のために出演者は全員ボクササイズをやったらしい。どおりでボクシングシーンが様になっていると思った。試合のシーンはけっこう迫力があって、もっと見たかったのに少ししかなくて残念だった。でも本気で打ち合いをしていたらもっと面白かっただろう。今度本当のボクシングの試合を見に行きたいと思ってしまった。
 話しが横道にそれてしまったのでもとにもどそう。
悲しい場面も会ったが、やはり最後はハッピーエンド。仲良く帰路につくハルコたち一家を見ながらお芝居を見に行った私たちもよかったよかったと劇場を後にするのであった。
(大阪公演 2001/9/28〜9/30)
(2001.10.1 森)

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「青空のピコ」
作  小林誠治
演出 鈴木健之介
総指揮 森川英雄

(社)大阪府産業廃棄物協会主催の演劇によるごみ問題への啓発活動から生まれた作品。
劇団往来が3年前から取り組んでいるこの戯曲は、産業廃棄物の問題、ゴミ処理問題などを真正面から取り上げ、ともすれば堅くなりがちな内容をわかりやすく見せている。
建築会社の2代目・信一は産業廃棄物処理に積極的に取り組み、山間の村に産廃処理施設を建設しようと計画した。だが、環境問題を熱く語る息子のことが、根っからの商売人の父親には心配でたまらない。案の定、住民運動が巻き起こり、小さな村は賛成派・反対派入り乱れてカンカンガクガクの大騒動。利権に聡い町会議員、住民を啓蒙する運動家、騒ぎにタカる右翼団体も登場し、信一は理想と現実の間で揺れ動く。
産廃処理施設をめぐる住民運動が起きた地域で実際に取材し、どんどん改稿を重ねたという台本は、日本の環境問題の現実をリアルにとらえている。新聞などではついつい読み飛ばすのだが、生身の役者に現実を目の前に突きつけられるとハタと考え込んでしまい、芝居の持つ力を感じざるを得ない。
劇団往来はこの作品でかなり地方巡業もしたようだが、地方で平凡に暮らす人たちに、ぜひ観てもらいたいテーマである。
(上演期間2001年6月6〜10日・近鉄小劇場)
(宇都宮 2001・6・18)

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「ここでkissして」
作   松田正隆
演出  鐘下辰男

近松の生誕地PRに力を入れる兵庫県尼崎市の企画「あまがさき近松創造劇場」のための書き下ろし作品。
古いオンボロの日本家屋に、若い女が引っ越してくるシーンで幕を開ける。引っ越しを手伝うのは恋人と、なぜか彼女の会社の上司。恋人は彼女と上司の不倫関係を疑っている。一方、女も舞台となる古い家への疑念が晴れない。そんなところへ、上司と昔不倫関係にあり、この家に住まわされたことがあるという女が訪ねてきて…
まるで建築パースのような舞台設計。古くて、なつかしい日本の家が舞台上に再現され、引っ越しの様子も、上司との会話も、いつかどこかで見かけた風景が繰り広げられる。元同僚の女の復讐劇からストーリーはどんどん日常を逸脱していくが、淡々としたセリフの積み重ねに舞台との距離が逆に近づいていくのを感じる。
建築パースの見える部分、見えない部分を巧みに利用した演出、柱時計や太鼓の音など登場人物の心理を効果的に描いた音響プラン、照明の美しさに感動した。シアターから駅までの帰り道、周りからは「よくわからない」という声が聞こえたが、あの程度の逸脱なら現実の事件で実際に起きている。
作者の松田正隆さんは私と同じ大学の同じ学部で、年次も重なる。あの場所にこんな才能が存在されていたとは驚きだ。
(上演期間2000年12月8日〜10日・ピッコロシアター)
(2000.12.17 宇都宮)

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関西芸術座『サン・フラワー・ハレルヤ・ディ』
企画・演出 松本昇三 
脚本 ユーユー・マ(原案 響よしの)

 売れない脚本家・ヒカルの元に突然舞い込んだ仕事。それは急死した脚本家・マイの書きかけのドラマの結末を付けるというものだった。しかし、そのドラマとは、かつて大学時代の演劇部の仲間だったマイとヒカルをモデルにした内容だった。
 マイはそのドラマの中でヒカルのドラマのネタを盗んだことを告白し、許しを請うていたのだ。
実体のない幻となったマイ、ヒカルの作り出したテレビドラマの登場人物、かつての仲間を連想させるマイのドラマの登場人物、それらが次々に現れては消える。
 初めのうち、これとこれはどういう繋がりがあるのだろうと困惑しながら見ていたのであるが、話が進むにつれ全てが自然に結びついて、うう、そうなっているのか! とその仕掛けに驚いた。
仕事での勝者と敗者、恋の勝者と敗者、ネタを盗んだ方と盗まれた方、双方の苦悩がようく伝わってきて切ない思いにさせてくれる物語だった。
(上演期間2000/12/6(水)14:00 近鉄小劇場)
(2000.12.15 森)

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