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今月のお題  『火』      

この季節「火」といえば、いろいろな場面が思い浮かぶことだろう。年末31日の夜、京都では螻蛄参りの火が道を行き交う。明けて新年を迎えるのは、初日の出を迎える人を温める焚き火。関西の春を迎えるのは、奈良のお水取りの大松明。この季節、さてどんな「火」が各人の人生を浮かび上がらせるのだろう。


宇都宮 雅子

『「火」の人、「水」の人』

太古の昔、人は「火」を発見し、明るさ、暖かさ、食べ物の調理・保存、そして獣から身を守る術を覚えた。私たちが暗闇の中で火を見るとホッとするのは、火を発見した原始の記憶がDNAの中に織り込まれているから――そんな話をどこかで聞いた。確かに、火や炎にはなんともいえない魅力がある。決まったカタチがなく、自由自在にうごめいて、消えたかと思うと息を吹き返し、何時間見つづけても飽きない。生活に欠かせないものだが、使い方を間違えれば命を奪う凶器にもなる。子どもが一時期魅せられたように火遊びをしてしまう気持ちもわからないではない(絶対してはいけないけれど)。
話は変わるが、四柱推命の占いによると私は「水」の人らしい。「捉えどころがなく、どんな場所にもスルスルと入ってしまう。あなたにピッタリよ」と占いをする友人に宣告された。そして、水は火を消すので、「火」の人には優位に立てる、とも。そういえば、私を評価してくれる人は、どうも「火」タイプの人間に多い。「火」タイプの人は私にないものを持っているので魅力的だが、「火」と「水」のどちらが怖いかと聞かれると絶対に「水」だ。烈火爆発タイプの他人よりも、自分が怖い。そう考えていくと、占いに「火」と「水」を持ち込んだ古人の気の利かせ方にしばし感心する。


福留 順子

『一期一会の「火」』

もう何年前のことだろう?数ヶ月だったと記憶しているが、在職したプロダクションがある。年末そこでの独身男女が集まって、比叡山で除夜の鐘を聞き、明石で初日の出を見るツアーを敢行することになった。大晦日の凍えるような夜に車に分乗し、京都比叡へ向かう。
煌々と「火」に照らし出された、凍えるような比叡山延暦寺の境内。静寂を破って除夜の鐘が鳴る。寒さに震えながら京都を後にし、次の目的地神戸の明石に向かう。
海岸では火が炊かれ、初日の出を見ようとする人がまばらに点在する。海岸が徐々に明るくなり、海の向こうが急速に明るくなり、ポッと日が出る。疲れと余韻を残して、朝、ツアーは終った。
「火」というと、あの時の境内を照らしていた松明や焚き火の火と海岸での焚き火を思い出す。あのメンバーはあれ一回だけだった。その後、それぞれが別の道に進み、消息すら定かでない。


伊藤 さおり

『神聖なるもの』

祭りや行事に火はつきもの。神仏を奉るときには火が祭られる。
考えてみると、私が住む大和の地にもそのような祭りは数多くある。8月の盂蘭盆会に行われるのは、高円山の大文字送り火と春日大社の万灯籠。万灯籠では境内にある約2800の灯籠すべてに火が灯され、実に幻想的だ。そして「なら燈花会」は、奈良公園一帯に約8000個のろうそくを灯し、その一つひとつの炎に世界平和と来訪者の願いを託した新しいイベントである。また、幽玄の世界へといざなう興福寺・薪能や芝能もかがり火あってこその祭りだろう。
寒さ本番となるこれからの季節は、火もさらに勢いを増す。正月行事のひとつである「とんど焼き」は、火によって新年の無病息災や五穀豊穣を祈るもの。奈良はもとより全国各地で行われているこれは、しめ縄などを持ち寄るといった日本らしい行事であり、いつまでも大切にしたい祭りである。さらに3月になると、「お水取り」の名で知られている東大寺の修二会(しゅにえ)が始まる。練行衆と呼ばれる僧侶が行う厳しい行法で、1日から14日までの期間中は毎夜、二月堂にお松明が上げられ、勇壮に火の粉を撒き散らす。
太古の時代から神聖さが宿るとされてきた火に、人間は一切の不浄を払い清めるという役割を見出したのだろうか。そんなことを考えつつ、お水取りが終われらないうちは春が訪れないとされるこの地に、冷たい季節はしばらく続く。


森 たかこ

 『私は放火を見た?』

 年末が近い。となると「火の用心」となるのだが、私は半年ほど前「放火か?」とびっくりするような光景を見たことがある。
 夜、歩いていてふと脇道を見ると、浮浪者風のおじさんが壁に向かってしゃがんで何かしている。よく分からなかったが、あっという間に火が上がった。「あ!」と立ち止まる私。しかし火もあっという間に消えた。
 視線を感じたのかその人がこちらを見た。私は逃げようとしたが、彼はそのまま、またそこにしゃがんだ。結局、怖くなってすぐそこを離れたが、本当に放火だったら大変だ。確認しなくてはと思うが、戻ったら、そこで目撃した私をその人は待ちかまえているかもしれない。
 それで2、3分後、その道路の向かいから脇道が見える位置に戻り、そこを見た。手にはすぐに消防署に連絡できるように携帯電話を握っている。
 しかし、そこには誰もいなくて、火も上がっていず、何もない夜道が続いているだけだ。ほっとしたが、本当にすぐに連絡しなくて良かったのだろうか。でも本気で放火するにはそのあたりにはなにも燃えるものもない。あれはいったい何だったんだろうと今でも不思議に思う。その道を通るたびにそこを見てしまう。いつも変わりないが怖かった。恐ろしい場面に遭遇すると、何もできないものである。