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今月のお題  『声』    

一口に「声」と言ってもいろんな意味がある。広辞苑によれば、「人や動物が発声器官から出す音」「音声学上、声帯の振動をともなう呼気、有声音」「物の振動から発する音」や「意見や考え」「季節などが近づくけはい」などもある。
さて今回メンバーからは、どんな「声」が届けられるのでしょうか。


藤原 佳枝

姿形は見えねども

懐かしい人を思い浮かべたとき、その人の顔とともに声も蘇る。声ってその人の個性を表すものだとしみじみ思う。スクリーンの俳優のかっこよさに惹かれる一方で、声優の声にうっとりとすることも多い。声の素敵な人は本当に魅力的だ。
声を武器にした仕事として、電話業務の仕事がある。知人がその仕事をしているが、声は表情が見えないからこそ大変で、最初の7秒で相手への印象が決まるらしい。逆に言えば7秒で勝負が決まるとしたら、其処に全神経を集中すればいいだけでどうせ顔は見えないし、ここは女優でも何にでも成り切るぞ〜、という気分でやるとか。彼女業務成績はすばらしく良いらしいので、声美人に違いない。
他にも電話応対しているだけでお客さんに好意を抱かれて、その店舗まで会いに来られた人がいる。姿形が見えないだけによけいに想像力をかき立てられるものなのだろう。声を巡るエピソードが尽きぬほど声とは摩訶不思議なものである。


伊藤 さおり

1票の静かなる声

全国で進みつつある市町村合併。わが町も例外ではなく、近隣どうしの7町で合併しようという計画がある。すでに新市の名前も住民アンケートにより決定し、先月には住民説明会も開かれたところ。しかしながら、そこで配布された資料には合併した場合の財政シミュレーションはなされているものの、合併しなかった場合に現在の赤字財政をどう切り詰めていくかのシミュレーションがなく、合併するのかしないのかの選択をする情報が十分ではないと感じた。
とは言うものの、最終的には12月実施の住民投票の結果が反映されるらしい。ところが投票資格者総数が2分の1以上でない場合は、開票すら行われないとのこと。さらに、そうなった場合に町長がどういう判断を下すのかはその時になってみないと分からないらしいのだ。こんないい加減なことでいいの?と思ってしまうが、その前に、投票資格を持つ18歳以上の若者たち。彼らは自分に投票権があるってことを知っているのだろうか。
「今まで投票に行ったことなんてありませ〜ん」と、選挙後のテレビ番組で恥ずかしげもなくインタビューに答える大人たちを目にすることがある。あんな大人にならないためにも、若者たち、もちろん元若者たちも、静かなる1票の声を大事にしたいものだ。


森 たかこ

『ボイストレーニング


先日、ボイストレーニングの先生にインタビューする機会があり、その教室も見学させてもらった。
美しくナチュラルな声を出すためのトレーニングとのことで、これに参加すれば私も美しい声になれるのでは、と張り切って出かけた。
きれいな声とは、響きのある声のことだそうで声を息に乗せて出すことが大切とのこと。息を吐いたり吸ったりする呼吸法の練習に多くの時間が割かれているのが驚きだった。
しかしさすがに先生の声は美しい。先生は声楽家であるので美しい声であるのは当然としても、同じ女でありながらこうも違うものかと驚いてしまった。
トレーニング後、先生にインタビューする際に、ずっと昔から聞きたかったことを聞いてみた。「トレーニングをすれば、声はきれいになりますか?」と。
先生はにっこり笑って「もちろん、肉声に響きが着くようになりますよ。でも声帯や顔、あごの形などは人によって違うので、憧れの人のような声になりたいと言ってもそれは無理です。声というのは個性ですから」と、はっきりおっしゃった。
声は個性……。なるほど……。低く、くぐもった声も個性的な声といえばそれなりに愛しい感じもする。
良くも悪くも自分の声とはこれからも付き合っていかなくてはならない。どんな個性的な声でもつぶさず大切にしなくてはと改めて思った。


福留 順子

聞く耳


「あそこで拝んでいるやろ。あんたもはよ行って、お参りしといで」これは、入院中の母の言葉。いわれたときは、痴呆か?と愕然としながら、「何を拝んでいるの?」と聞くと、「葬式してるんやがな。あんたも行かんと」という。誰の葬式なのかを聞くと「私の」と答えが返ってきて、絶句した覚えがあるが、母には確かに聞こえていたのだろう。こんな状況で、そんなこと言われても困るじゃないの、と思ったけれど、それから1週間も経たずに、母は亡くなった。入院当初は、聞こえない声が聞こえるといって、医療関係者から首を振られた。まるで、痴呆が出てきましたね、といわんばかりに。今なら分かる。母は、極度のストレスでせん妄が出ていただけだと。極度のストレスや骨折・入院などで、痴呆と間違えられるがせん妄が出る。これは、原因がなくなれば、解消される。現実からの回避なのだろう。その後、諦観したのだろう、生きることを諦めたようだった。死期の近いことを教えてくれていたのに、聞きたくない私は、本当の声を聞かなかった。「声」って、現実に聞こえるものばかりでは、ない。                   



宇都宮 雅子

『コンプレックス

自分自身にいろんなコンプレックスを持っている私だが、「声」コンプレックスは思春期以降ずっと根強く持ち続けている。女性にしては低い声のため、電話で男の子と間違えられたことがあり、自意識の強い思春期の頃はこれが結構ショックだった。
その後、男の子に間違えられることはなかったが、コンプレックスだけは根強く残った。思春期からン10年たち、ライターになって自分の取材テープを聴かなければならない立場になっても、いまだにテープの聴き始めは抵抗がある。「ああ、またこの声だ。やだなぁ」と。
ところが数年前、あるカラオケボックスで友人78人とカラオケに興じていたときのこと。私が歌っている横で「かわいい声ね」と言ってくれた人がいた。これはうれしかった。カラオケはもちろん裏声で歌うのだが、それでもいい。メイクした顔をほめられてもうれしいのと同じで、素材込みでほめてもらったと思うことにした。
それにしても、常に自分の容姿や声と向き合う役者さんはスゴイと改めて思う。容姿や声、しゃべり方、立ち居振舞の欠点をオーディションや稽古で指摘され、舞台や放送で自ら実感し、挙句の果てに頼んでもいない相手からも評価される。おまけに容姿や声は指摘されても直しようがない部分が多い。欠点込みの自分自身を丸ごと人前に晒して、それで自分の作品を作っていく。テープ起こしの声を恥ずかしがるライター(こんなライター私だけだろうが)とは雲泥の差だ。しかし、演劇も原稿も、創り手が自分自身を晒さないことには人を感動させる作品は創れない。 そんなわけで、コンプレックスとの闘いはこれからもずっと続きそうだ。