元に戻る

2009年冬号のお題  『ブログ』

「ブログ (Blog) とは、狭義にはWorld Wide Web上のウェブページのURLとともに覚え書きや論評などを加えログ(記録)しているウェブサイトの一種である。「WebをLogする」という意味でWeblog(ウェブログ)と名付けられ、それが略されてBlog(ブログ)と呼ばれるようになった。」
ウィキペディア(Wikipedia)よりブログの説明を引用しましたが、気軽にできるのがブログの特徴。
さて、PIAZZAのメンバーはブログにどんな思いをもっているのでしょうか?


宇都宮 雅子

『私がブログを持たない理由』

3〜4年前、私の周囲でもブログを開設する人が増えた。ライターの営業ツールとしても有効だと言われたが、すでにこのHPを持っているので「両方を維持するのは大変」と手を出さなかった。ブロガーの方々に話を聞いてみると、「写真も文章も携帯電話でできるからカンタン」「コメントの書き込みから人間関係が広がる」らしく、少々うらやましかった。

しかしその後、著名人や友人のブログを見るにつけ、「これはプライベートがバレバレになるのでは?」と思うようになった。日時がハッキリ表記され、どこでなにをやっていたのか写真入りでわかるからだ。

プライベートがバレるだけならまだいいが、人づきあいに気をつかうことも増えそうだ。たとえば、Aさんとの先約があったので、Bさんのお誘いを断ったとする。Aさんとの先約を楽しそうにアップしたブログを、Bさんが見たらどう感じるか。う〜ん…できれば避けたい事態だ。内容を仕事に特化しても同じ。「C社の仕事より、ウチの仕事を優先してくれ」と思われないか。「“忙しい”と言ってたけど、実はヒマだったんじゃないの」と思われるのも困るし、逆も困る。

考えすぎかもしれないが、オファーを受けて商売している身では、あちらこちらに気をつかってしまう。そんなことより、1対1のやりとりを信じてほしい…そんなこんなでブログを持たずに現在に至っている。


森 たかこ

『リアルタイムの内容が生々しい』


メールを打てる人なら、ほとんど誰でも作れてしまうブログ。パソコンに疎い人や有名人も気軽に心の内を明かしたりして大流行。
私はよく頭痛になるので、頭痛になった日を記録するためもあって頭痛のブログを作ってぼちぼち更新しているけれども、他の病気関係のブログもよく読む。
ガンの闘病日記などは、薬の種類や治療方法なども詳しく記載され、再発したときの様子やその時感じたことなども生々しく書かれてあって胸が痛くなる。
更新間隔が開くと非常に心配になる。そんなとき「元気です」なんて内容の記事がアップされるとホッとする。全く縁もゆかりもない人のことなのに。
でもある日を最後に、数ヶ月も更新されないままになっているブログもある。ずっと心配なままだ。または、しばらくすると、親族の方の「お知らせ」がアップされていたりする。ほとんどは管理人の方が亡くなったという内容だ。これは落ち込む。そうかもしれないと思いながらも、やはり生きていて欲しい。
今は亡き作家中島梓さんのホームページ(ブログではないけれども)は、元気な頃は多量の文章の日記が毎日更新されていて、楽しみに読んでいたのだけど、彼女がガンにかかって、ある時期から更新が時々滞るようになった。体調が悪いのかと心配していると、最終更新日から1ヶ月ほどして訃報が流れた。「ああ、もうこの世にいないんだ」と辛くなる。

ホームページやブログ上では、今は亡き人たちが健在な頃に書いた喜びやら怒りや悲しみが、書いたばかりのように私たちの前に示されている。書籍に比べてものすごく早くて身近でリアルだ。
心の内を気軽に発信できる時代だけど、中身は気軽なものばかりではない。


藤原 佳枝

公開日記の気恥ずかしさ』

ネット上にブログは今やあふれるほどあるし、ブログを公開している友人も何人もいる。お気に入りに登録しているブログは沢山あるのだが、実際に定期的に巡回しているのはほとんどない。毎日更新している人もいるようだが、ネタがよく尽きないものだと感心する。
結局、毎日更新するとなると、極めて日常的な内容をつづるしかないように思う。つまり、プライベートな内容をさらすことになってしまう。個人的には、そのことに抵抗感が強い。

ブログの中にも極めてプロフェッショナルな内容のものもあるし、冷静な論評や興味深い情報もある。ただ、家族や友人の写真やら、電話や手紙の内容などを出したものもあり、これって大丈夫なの?などと心配してしまう。本来ならば日記として紙の上に書いておけば無問題なものを、ネットにさらすことにはどんな意味があるのだろう。そこには、人目があることを意識して自分のことを披露する、という高揚感があるのかもしれない。

たぶん自分がブログを公開することはまずないだろうが、自分がこの世にいなくなってもメッセージは残るというのは、ちょっと意味があるのかもしれないな、と思ったりする。