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   2010年夏号のお題  『プール』

もうすぐ夏本番。暑い夏は水泳が一番。海に川にプールと泳ぐ場所は様々。
多くの人が身近に感じているプール。プールにメンバーはどんな思いを持っているのでしょう。


宇都宮 雅子

『私がおばあちゃんになっても』

私のマンションの目の前には大規模な市民プールがあり、毎日眺める風景のひとつになっている。
以前、腰痛にスイミングがいいと勧められ、数年間そこに通った。混雑時を避けて平日昼間の市民プールに行くと、利用者はご高齢者と主婦層中心。特にご高齢の方々はひざ痛対策で来られているらしく、泳がずにプールの端をずっと歩いておられた。片やひざ、片や腰と、部位は違えどからだの悩みに変わりはなく、親近感を感じたものだ。おぼつかない足取りで黙々と歩く姿を拝見すると、「いくつになってもできる」と勇気をもらえた。
その後、仕事が忙しくなり、プール通いは自然消滅してしまったが、スイミングが本当に腰痛によかったのか、実のところよくわからない。ただ、継続したおかげで泳げる距離がどんどん伸び、たとえゆっくりでも2000m泳げたことは自信になった。同時に心肺能力が高くなったこともうれしかった。
しかし、体力も心肺能力も継続してこそ。運動不足のカタマリとなってしまった(おまけにムダなお肉もついてしまった)今の私に、あのときのご高齢者の姿が重なる。
まあでも、「いくつになってもできる」んだから、いつかまた体型に合う水着を見つけてプールに通えばいい。市民プールは今も変わらず、マンションの目の前にある。赤字垂れ流しの施設なので存続が不安だが、私がおばあちゃんになっても、どうかそこにあり続けてくれますように。


森 たかこ

『小学生時代の体育』

小学生の頃、夏の体育は、プールに入れるので、それはそれは嬉しかった。体育の時間が待ち遠しくて仕方がなかった。体育という「授業」ではなく、「プール遊び」という感じだった。
プールの後の、汗が流れてさらさらの皮膚の感覚を今でも鮮やかに思い出すことができる。体育が終わった後の、猛烈な眠気までが懐かしい。
ある程度育って、友人たちとプールに行ったこともあったけれども、小学校のプールの授業が一番楽しかったような気がする。
先生に笛を吹かれて、「入りなさい」とか「出なさい」とか命令され不自由だらけだったのに不思議だ。周りがみんなお友達だったから楽しかったのかな。それとも他にあまり楽しいことがなかったから、学校のプールまでがめちゃくちゃ楽しかったのか……。もしくは、運動神経がいい方ではない私が、プールの中ではみんなより少しだけ早く泳げたのでそれが嬉しかったのか。

大人になった今、ほとんどプールで泳ぐことはない。
今は、我が家の近くの小学校に通う子どもたちのプールバッグを見ながら遠い日々を思い出すだけ。だけど本当に楽しかった。今も小学生たちは楽しいプールの授業を受けているのだろうか? そして何十年経っても、楽しかった思い出を心に持ち続けているのだろうか。


藤原 佳枝

『ハードルが高い』

暑い夏の昔、水遊びは好きだったが、プールの授業となるととにかく苦手だった。泳ぐのが下手だというのが一番の理由だったと思うが、水着姿になる気恥ずかしさも子供心にあった。記憶を遡ると、ここ20年水着を着ていない。

夏休みにホテルに滞在しプールで楽しむ、なんてことは傍目には優雅で素敵なことだと思える。だが、自分には無縁だと考えていた。水着姿がサマにならないのがよくわかっていたから。全くの自意識過剰に尽きる。誰も自分の水着姿なんて気にしていないのに。

ところが、年を取るというのも面白いもので、人目がだんだんと気にならなくなってくる。人様に迷惑をかけているのでなければ、好きなことをやろうという気持ちが強くなる。オバサン化というやつだろうか。体型は崩れてきているのを自覚しているのに、水着を着てもいいかなという気分だ。友人も体力維持のためにスイミングを始めたりしている。周りはもっと年上の人達が多いのよ、などと心強いことを言ってくれる。

プールに行くのはとてもハードルが高かったことだが、何となくハードルを越えられそうな気がする今日この頃である。