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 2011年冬号のお題 『成人式』

成人式といえば、正装をして公民館や市民ホールへ行き、来賓のスピーチを聞いて、同級生と再会するもの。
戦後数十年変わらぬこのスタイル、メンバーはどのように感じているのでしょうか。


森 たかこ

『成人式からの出会い』

今年(2012年)の成人の日は1月9日。

成人の日はずっと1月15日だったので、毎年変わると不便で困る。と、まあ文句を言っても仕方がない。

それでも他の祭日のように
「今日は何の日だっけ?」
と考えなくても午前中外に出ると着物を着た若い女の子がにこにこ笑いながら友達達と歩いているので
「ああ今日は成人の日だ」
とすぐわかる。

遠い昔になるけれども、私にも二十歳の日があり、成人式にも参加した。
着物を着て髪をセットしてもらうと、美しい女の人になるかと期待したけど、怒り肩の私は着物が似合わず髪型も変な日本髪風で悲しくなった記憶がよみがえる。それでも成人式は懐かしい友達がいっぱいですごく楽しかった。
ただ、成人式の講演に招かれていた作家さんは全然知らない人だったのでちょっと不服だった。彼の名は、黒岩重吾さん。
当時すでにおじさんで、「誰この人?」って感じで、私は名前も聞いたことなかったし、たぶん他の誰も彼の作品を読んだ人はいなかったと思う。成人式の日に講演してもらうのにふさわしい人選かというと作品から類推する限りあまり合ってないような気がするんだけど、その時はわからないなりに、仕方なく聞いていた。それでも、黒岩さんが
「いろんな珍しいものや美味しいものを食べ飽きてみんなで腐った肉を食べてみた」という話などを聞いて、印象深かったことを覚えている。 これが、作家って人を始めて見た最初で、かつ「作家って変わりものかも?」って思った最初だった。 その後、物書きの人をちらほらと見てきたが、二十歳の時に受けた印象とあまり変わっていない。 面白くって変わり者。
成人式が作家さんとの遭遇だったんですね。


藤原 佳枝

『成人式の意味』

1月9日に振り袖を着て歩く女性集団を見たときに、今日は成人式だったんだと気づいた。着物離れの昨今、これほど多くの着物姿を目にするのは、成人式が卒業式でしかない。現在の形態の成人式自体は戦後に登場したもので、伝統的なものではないようである。「大人になったことを自覚し、自立する青年を祝い励ます」という趣旨のもとで、成人の日が制定されたらしい。
最近では、荒れた成人式がニュースによく取り上げられる。式典の際に大騒ぎしたり、壇上で妨害したり、挙げ句の果てには逮捕されることもあった。若者のマナーの悪さが指摘されることが多く、自治体から費用が出ていることを考えると、式典を開く意味があるのかという声も出ている。
もう30年も前の自分の成人式を振り返ってみると、確かに式で大騒ぎする人はいなかったけれど、久しぶりに会えた友人とおしゃべりに興じる風景はあった。残念ながら、来賓挨拶の言葉も心に残ってはいない。そういう、ある種の同窓会的な意味合いで存在するのもありではないかと思う。
今年は震災後初めての成人式で、被災地では和服を提供されて式を祝った人達もいた。一様に、成人式に参加できたことを喜んでいた。若者のマナーを嘆くよりも、先を行く大人達が自然とお手本となるような生き方を示すことが大切な気がする。何よりも成人式が普通に開催されるということは、平和な証拠だと痛感する。


宇都宮 雅子

『最近の成人式といえば…』

成人式って必要なのだろうか?――と、長らく思っていた。荒れる成人式の報道を見ると、とくにその想いを強くした。私自身、成人式の日程が生まれて初めての海外旅行と重なり、出席しなかった。振袖を着て、同級生に会い、アルバムなど記念品をもらう…というのがお決まりパターンらしいが、初めての海外旅行のほうがよほどエキサイティングで楽しみだったから、残念にも思わなかった。
しかし、高校を出てすぐ親元を離れる地方の若者たちにとって、成人式は故郷を実感し、めったに会えない同級生と会える貴重な機会。まして今年は被災地の成人式の報道を目にし、成人式を開ける有難みがわかった。全員無事で、20歳を迎える。当たり前に見えて、なんと幸せなことか。
それにしてもオバサン的な目で最近の成人式を見たとき、気になるのはギャル風メイクとキャバ嬢のようなヘアスタイル。振袖に飾り帯やらなんやらジャラジャラつけるのはまだいい。でも、山もり盛ったヘアスタイルは、なんだか振袖の着こなしまでだらしなく見せてしまう。
この傾向、ずっと続くのだろうか?