元に戻る
今月のお題 「運動会」    

涼しくなり空が高くなりはじめると、そろそろ運動会の季節。日曜日はどこかの学校で運動会を開催していることでしょう。
メンバーそれぞれの運動会をお楽しみください。


伊藤 さおり

『静かな運動会』

秋、晴天の空の下で繰り広げられる運動会。子ども達はもちろんのこと、親にとっても我が子が活躍する姿を見られる一大イベントであり、ご多分に漏れず私も保育園に通う息子を見るのをとても楽しみにしている一人だ。ところが、ここ数年感じるのは"運動会が静かになっている"ということ。そう、我が子の姿を残そうとビデオやカメラを一心にのぞき込む人が多いため、拍手や応援が少ないのである。そう思う人は少なくないはずで、ある雑誌でも「運動会の季節 子どもの記録をどう残すか?」といった特集で、撮影に熱中してしまうことの弊害が掲載されていた。
確かに記録して残せば、一生の宝物にもなる。でも、ファインダーを通して見たものは、自分の中では意外と記憶に残っていないもの。それに何と言っても、子ども達はそんな状況をどう感じているのだろうか。暑い季節から練習を重ねてきてついに発表という舞台で、声援のない中で競技し、見送る拍手もないままの退場。親は子どもにビデオをのぞいたまま片手をふるばかり。一生懸命がんばっている子ども達がかわいそうで仕方ない。
今年はすべての競技で思いっきり応援するぞー!みなさんも一緒にしましょうね。 


宇都宮 雅子

『徒競走の着順は是か非か』

最近の運動会は、徒競走に1着2着と着順をつけないのだと小耳に挟んだ。子どもたちを平等に、のびのびと育てるための手段だという。この話を聞いたとき、なんともいえない不安が心をよぎった。
足が遅い私は、運動会の徒競走が嫌いだった。子どもの頃はそれでもまだ楽しめたが、自尊心が異様に強くなる思春期の頃になると、本当に苦痛以外のなにものでもない。「雨よ降れ」と前日の空を睨みながら祈った手合いだ。しかし、だからといってあのときの私に、「じゃあ着順つけずにおこうか」と云われたとしても、おそらく断っていたと思う。全校生徒の前で走る限り着順は誰の目にも明らかだし、明らかな結果を伏せたところでなんの意味があるのか。本音と建て前の文化の、イヤな部分を見せつけられるだけではないだろうか。
人の持ち味はそれぞれ違う。足の速い子もいれば、漢字をいっぱい知っている子もいる。どんな個性の子どもたちにも、学校を出れば競争社会が待っている。当然、上に立つ人間と下に立つ人間に分かれてしまう。着順をつけない措置は一見子どもたちを守るように見せて、実は甘えや逃げ道を子どもたちに教えてないのだろうか。人間関係を丸く収めることに長け、自分が傷つくことをなによりも恐れる最近の20代を見ていると、日本社会そのものの脆弱化をつい心配してしまう。


森 たかこ

『なぜか必死になる運動会』

運動会というと、学校行事のなかでは大きなイベントだと思うが、意外と(と言っては失礼だが)子どもも大人も力を出して楽しんでいるように見える。
運動会のリレーで優勝したからといって、どうなるというわけではないし、赤組が勝とうが白組が勝とうがどっちでもいいことなのだが、それなのに走っている子は顔を真っ赤にして走っているし応援している者は生徒だけでなく、いい年をした大人である親が、大声を出して声援している。
運動会を見に行くときは、「めんどくさいけど、まあとりあえず見に行こうか」という感じで学校に出かける。そして最初、「ふーん」とつかず離れず適当に観戦しているのであるが、自分の子が出場したら周りは目に入らなくなり、まして自分が綱引きなどに出されたりしたときは、もう歯を食いしばって力を入れてしまう。後で、何であんなに必死になるのかと自分でもおかしくなるのだが、やはり負けたくないという思いが知らぬ間に力を入れさせてしまうのだろう。
時々適当にへらへら走っている子がいるがそういうのは、結局つまらないだろうなと思ってしまう。
しかし子どもが大きくなるにつれ、そういう面倒も楽しみもだんだん少なくなる。やはり寂しい。楽しめるときに楽しんでおくのがいいようだ。


福留 順子

『運動会』

私の住んでいる地域では、9月から10月にかけて運動会が花盛りになる。学校の運動会・地域の運動会・企業の運動会等々。学校の運動会と地域の運動会は、子どもがその年齢にあるので、見に行ったり参加したりしている。
先日、学校の懇談会の折に運動会について説明があった。個人別に走って着順を決める競争はないけれど、クラス対抗リレーはある。もちろん全員参加のリレーであるから迫力には欠ける面もあるが、それなりに応援にも熱が入る。しかし、説明を聞いてビックリした。リレーは先にテープを切ったチームが勝った、ことにはならないのだそうだ。
運動会前に、リレーを行ってタイムを取り、本番でそのときのタイムを何秒縮めたかで、順位が決まるという。本番前のタイムレースで、走りの早い子が休んでいて代走した子が走りの遅い子だったとしたら、当然本番にタイムは大幅に上がるわけで、そのチームが1位になる。また、障害のある子がそのときは何とか走ったけれど、本番は逆送したため大幅に遅れたという場合は、最下位になる。
いろいろ考えた挙句の最善策なのだろう、とは思う。が、…。
運動が苦手で運動会が大嫌いな子がいても当然だし、中途半端な子もいるだろうし、運動が得意で運動会に大活躍する子がいて当然だと思う。何で個人勝ったり負けたりすることをそんなに回避するのだろう?
みんな同じでみんないい、なんてことあるわけないじゃないの!みんな違って、みんないいでしょうが!ここ数年、小学校の運動会を見るたびに思ってしまう。