作品名 | 監督 |
マ行 | |
マイアミ・バイス | マイケル・マン |
マイノリティ・リポート | スティーブン・スピルバーグ |
マイ・ビッグ・ファット・ウェディング | ジョエル・ズウィック |
マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 | フィリダ・ロイド |
マグノリア | ポール・トーマス・アンダーソン |
マジェスティック | フランク・ダラボン |
マスター・アンド・コマンダー | ピーター・ウィアー |
マリー・アントワネット | ソフィア・コッポラ |
マリー・アントワネットの首飾り | チャールズ・シャイア |
マルコヴィッチの穴 | スパイク・ジョーンズ |
マレーナ | ジュゼッペ・トルナトーレ |
M:I-2 | ジョン・ウー |
Mr.&Mrs.スミス | ダグ・リーマン |
ミスト | フランク・ダラボン |
ミス・ポター | クリス・ヌーナン |
ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル | ブラッド・バード |
ミッション・トゥ・マーズ | ブライアン・デ・パルマ |
みなさん、さようなら | ドゥニ・アルカン |
耳に残るは君の歌声 | サリー・ポッター |
みんなのいえ | 三谷幸喜 |
ムーランルージュ | バズ・ラーマン |
息子の部屋 | ナンニ・モレッティ |
メメント | クリストファー・ノーラン |
メラニーは行く! | アンディ・テナント |
メリンダとメリンダ | ウッディ・アレン |
メン・イン・ブラック2 | バリー・ソネンフェルド |
摸倣犯 | 森田芳光 |
ものすごくうるさくて、ありえないほど近い | スティーヴン・ダルドリー |
モンスター | パティ・ジェンキンス |
モンテ・クリスト伯 〜巌窟王〜 | ケヴィン・レイノルズ |
「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」
監督 フィリダ・ロイド
出演 メリル・ストリープ
ジム・ブロードベント
オリヴィア・コールマン
(2011年/イギリス)
1980年代の病めるイギリス社会を鉄の意思で立て直した政治家マーガレット・サッチャーの伝記映画。
地方の市会議員の娘として生まれ、政治家を志すようになったサッチャー。「政治は男がするもの」という女性差別の壁と闘いながら徐々に政党内での発言力を強め、ついにイギリス初の女性首相に。国内の労働政策にもフォークランド紛争にも毅然と立ち向かい、「鉄の女」の異名を取る。
つい先日、イギリスの元首相マーガレット・サッチャー死去のニュースが世界を駆け巡った。その3日後に本作を観たのだが、メリル・ストリープの演技がスゴ過ぎて、ストーリーよりそちらに目を奪われてしまった。ニュース映像で繰り返し流れたサッチャー元首相の演説は、独特のイントネーションと声の張りだが、それを見事に再現していたし、晩年の認知症を患ったときの演技も絶品! なにかを思い出そうと懸命に脳の中を探り、答えが見つからないまま不安そうに宙を見つめるあの表情! 歩く動作も、幻視の中の亡き夫との会話も、どれもみな「お見事」としかいいようがない。アカデミー賞主演女優賞も当然といったところか。
80年代に女性で国のトップを張るというのは、並大抵のことではない。人にどう思われようが、自分がいいと思ったことを貫き通す強さは、ぜひ見習いたいもの。女性は男性よりも他人の目を気にするし、嫌われたときに傷つきやすい。そのせいなのかどうか、サッチャーには女性の友人がひとりもいなかったという。
しかし、何事も貫けば周囲は認めるようになるし、嫉妬や怨嗟の声も時間の経過とともに過去のものになる。彼女には最高の理解者である夫がいた。夫であり、いちばんの親友である存在に先立たれたときの悲しみは筆舌に尽くしがたいだろうが、認知症になってからは妄想の中でいつも夫と一緒だった。そう思えば、認知症も悪くないかもしれない。
(2013・04・26 宇都宮)
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
監督 スティーヴン・ダルドリー
出演 トム・ハンクス
サンドラ・ブロック
トーマス・ホーン
(2011年/アメリカ)
オスカー(トーマス・ホーン)は頭脳明晰だがコミュニケーションに問題がある11歳の少年。彼の将来を案じてか、父(トム・ハンクス)は彼にいろいろなゲームをもちかけ、楽しみながら人とコミュニケーションすることの大切さを教えていた。ところが、2001年9月11日、父はワールド・トレード・センターで商談中に同時多発テロに巻き込まれてしまった。父の死後、オスカーと母(サンドラ・ブロック)は絶望の中で過ごす日が続いたが、ある日クローゼットの中で1本の鍵を見つけ、父の最後のメッセージだと確信。鍵の秘密を求めて、ニューヨーク中を訪ね歩きはじめる……
9.11の世界同時多発テロを描いた映画はいろいろあるが、遺族の、それも子どもの視点から描いた点が興味深い。突然家族を失った者にとって、最後のメッセージを限りなく大切なもの。とくに主人公のオスカーは最後のメッセージを一度受け取り損ねた心の傷を負っている。子どもとは思えない計画性で探求を続けるが、もちろんそう簡単に答えは見つからない。
最後に見つかった答えは「あ、そういう外し方をしてきたか」という意外な展開。しかし、人生なんてそんなもの。「これが目標だ」と信じて何年、いや何十年とやってきたことで答えを得られず、副次的に生じた答えが正解だったりするものだ。
父親役にトム・ハンクス、母親役にサンドラ・ブロック、謎の老人役にマックス・フォン・シドーと芸達者を揃えたが、なんといっても圧巻だったのはオスカーを演じたトーマス・ホーンの演技! アスペルガー症候群をもつ少年という難役を見事にこなし、ただただ感服した。彼を取り巻くアメリカの市井の人々も温かい。日本人なら「子どもだから」という理由でそれなりに接するが、彼の人格を認めたうえでの1対1の対応に文化の違いを感じる。
(2013・01・16 宇都宮)
「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」
監督 ブラッド・バード
出演 トム・クルーズ
ジェレミー・レナー
サイモン・ペッグ
(2011年/アメリカ)
トム・クルーズの、トム・クルーズによる、トム・クルーズのための映画シリーズが帰って来た。本作で第4弾となるが、49歳とは思えぬトムのアクションにひたすら脱帽だ。
クレムリンで爆破事件が起き、イーサン・ハント(トム・クルーズ)らに嫌疑がかかる。アメリカは彼らを所属する極秘スパイ組織IMFから抹消。イーサンたちは組織のバックアップなしで独自に真犯人を追うことになり……
モスクワ→ドバイ→ムンバイと、相変わらず世界をまたにかけたスパイ合戦。随所にスパイ映画らしい小道具が登場し、メカ好きには楽しいシーンの連続だ。世界一の高さを誇るドバイのブルジュ・タワーでのスタントなしのトムのアクションが大きな話題になったが、確かにいちばんの見どころ。高い場所が苦手な人は、画面を見ているだけで震えるのではないだろうか。
よく言われることだが、トム・クルーズという人は1本の映画を撮影するために時間をかけて体づくりをし、あり得ないアクションを自らこなす。撮影にも納得できるまで時間をかけ、人間関係を大切にし、見習いスタッフを含めて誰にでも優しく接するという。まさにプロ中のプロ。長くハリウッドで第一線を張れる理由の一端がわかろうというものだ。
ただ、トムの頑張りは伝わってくるのだが、このシリーズにマンネリを感じるのは私だけだろうか。本当に見たいのはアクションやスパイ小道具でなく、人と人の知恵を絞ったやりとりだ。その証拠に、私がいちばん面白く感じたのは、トムと仲間たちが殺し屋や殺人クライアントになりすましての騙し合いのシーンだった。内心の恐怖心を押し隠し、相手の顔色を読み、駆け引きをする……おそらく、日本人がいちばん苦手な部分なのだろうが、だからこそ印象に残った。
(2012・06・18 宇都宮)
「マイアミ・バイス」
監督 マイケル・マン
出演 コリン・ファレル
ジェイミー・フォックス
コン・リー
(2006年/アメリカ)
80年代アメリカのテレビシリーズの映画化を、オリジナルのエグゼクティブ・プロデューサーだったマイケル・マン監督が手がけた。
マイアミ・バイスとはマイアミ警察特捜課のこと。そこでコンビを組むソニー(コリン・ファレル)とリカルド(ジェイミー・フォックス)は、南米の麻薬組織に潜入する特別危険な任務につく。捜査の目的は、合衆国司法機関・FBI・マイアミ警察合同捜査陣に潜む内部通報者をあぶりだすこと。やり手の運び屋に扮した2人は麻薬組織のアジトに乗り込み、次々に危険な仕事をこなしていくのだが・・・
小型ジェット機を自ら操縦したり、パワーボートを飛ばしてハバナで休日を過ごしたりと、とにかくド派手な動きっぷりだ。「マイアミ警察ってそんなに予算があるの?」という疑問と「ハリウッド映画って予算があるのね」という納得を交互に繰り返しつつ、ストーリーはテンポよく進む。
2人の刑事はとにかくカッコいい。プレイボーイのソニーとまじめなリカルドという好対照なコンビは、のちのちの刑事ドラマに大きな影響を与えていそう。なによりオドロキなのは、「こんな危険な仕事を自ら志願する人間がいるのか?」ということ。裏社会の人間は危険とひきかえに莫大な富をつかめるから理解もできるが、公務員である刑事やFBI捜査官にいったいどんなメリットがあるのか。正義感? スリルと冒険? いやいや、ちょっと私たち凡人の想像を超えている。
しかし、ストーリー的にはやや拍子抜け。特にラストは「もうひとオチいるだろう!」と、画面に向かって突っ込んでしまった。マイケル・マン監督って「コラテラル」でも、ひとオチ足りなかったような気がするのだが。
(2007・1・31 宇都宮)
「みなさん、さようなら」
監督 ドゥニ・アルカン
出演 レミ・ジラール
ステファン・ルソー
マリー=ジョゼ・クローズ
(2003年/カナダ・フランス)
2003年度アカデミー賞外国映画賞をはじめ、数々の映画賞を受賞した佳品。
ロンドンで証券ディーラーとして活躍するセバスチャン(ステファン・ルソー)のもとに、カナダに住む父が余命いくばくもないという知らせが届く。大学教授だった父レミ(レミ・ジラール)は女癖の悪さが原因で母とは別居状態。セバスチャンも父を許せない気持ちのまま成人したが、劣悪な公立病院に入院している父の姿を見て、最初で最後の親孝行をはじめる。
女好きで口が悪く、ひとすじ縄ではいかないガンコな病人。誰もがお手上げの相手なのだが、「親孝行する」と決意した息子の行動力がすごい。環境の整ったアメリカの病院に行こうとしない父親のために、公立病院に多額の寄付をし、ミニキッチンまで備えた個室をリフォーム。そこに北米やヨーロッパから父の古い友人たちを呼び寄せ、病室はさながら洒落たサロンとなった。恩師が入院しても見舞いに来ない学生たちには、ひそかにアルバイト代を渡して見舞いに来させる(しかし、これは父親も裏を読んでいたのでは?)。さらに痛みに苦しむ父のために違法なドラッグを調達するのは、お金だけでなく身の危険も伴う行為だ。
言葉は交わさなくても行為でわかる父子の愛情。「おまえのような息子をもて」という父の最期の言葉が泣ける。延命処置を受けず、痛みを抑えながら、人生でいちばん幸せだったという湖畔の家で家族や友人に見守られながら最期を迎える。たくさんの管にがんじがらめにされて、病院で迎える最期よりはるかに幸せに見える。
親を見送るとき、どうするか? そして、自分がこの世を去るとき、どうしたいか?
この両面から考えさせられ、重いテーマなのに作品そのものの空気は重くない。脚本がよくできてるし、役者もうまいせいか。
それにしても、父を見送るために数ヵ月の休暇をとれる社会環境がうらやましい。日本では絶対不可能だ。死にゆく人には家族がつねについていてあげるべきだと思うが、見送った後の生活を考えるとそれすらできない現実が空しい。
(2006・08・21 宇都宮)
「Mr.&Mrs.スミス」
監督 ダグ・リーマン
出演 ブラッド・ピット
アンジェリーナ・ジョリー
ヴィンス・ヴォーン
(2005年/アメリカ)
ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが殺し屋の夫婦を演じたアクション・コメディ。
南米のホテルで出会ったジョン(B・ピット)とジェーン(A・ジョリー)。2人はあっという間に恋に落ち、結婚した。ところが、2人にはそれぞれ相手に決して明かすことのできない秘密があった。それは、彼らが別々の組織に属するプロの殺し屋であること。しかし、ある凶悪犯の殺害指令が2人に同時に下され、ヒットポイントで偶然相手に遭遇したことから、互いの職業を知ってしまう。ここから壮絶な夫婦の殺し合いがはじまるのだが・・・
あり得ない設定ながら、面白おかしくストーリーが進行し、アクションシーンも満載。B・ピットとA・ジョリーがとにかく美男美女でセクシーでカッコいい。凄腕の殺し屋が6年間の夫婦生活で相手の職業に気づかないはずはないだろうと思うのだが、主人公2人があり得ないぐらいカッコいいから、もうあり得ない設定も超越して楽しんでしまう。ちなみに、秘密の武器庫は夫が地下室で、妻はキッチンの電子レンジ。こんな超越した夫婦にも、性別によって役割分担されているのが笑える。
この映画がきっかけで親しくなった2人は、現在アフリカで出産に備えている。まさか本当にくっついてしまうとは・・・いったいどんな美形の子どもが誕生するのか。こんな想定外のエピソードまでついたオイシイ作品だ。
(2006・05・21 宇都宮)
「モンスター」
監督 パティ・ジェンキンス
出演 シャーリーズ・セロン
クリスティーナ・リッチ
ブルース・ダーン
(2003年/アメリカ・ドイツ)
シャーリーズ・セロンが醜い中年の娼婦を演じきり、アカデミー主演女優賞を受賞した話題作。
現在ハリウッドNo.1の正統派美人女優と私が思っているシャーリーズ・セロンが演じたのは、実在の連続殺人犯アイリーン。彼女になりきるため13キロも体重を増やし、本来の美人とはほど遠い容姿に変身しての演技は女優魂のカタマリだ。からだのラインは崩れ、顔も腫れぼったく肌も荒れ放題(もちろん特殊メイクが施されているが)の彼女を見ていると、「美しくなるのは大変だけど、醜くなるのは簡単かも」と思わないでもない。
身寄りもなく金もない娼婦アイリーンは、わずか数十ドルでからだを売って日銭を稼ぐ毎日だ。そんな夢も希望もない日々の中、バーで同性愛者の少女セルビー(クリスティーナ・リッチ)と出会い、人生が変わる。純粋に愛を求める彼女と、1日でも長くともに過ごそうと最後の客を取ったのだが、これがとんでもない暴力客でアイリーンは身を守るために銃で撃ち殺してしまう。その後もセルビーを養うためにアイリーンは客を取り続け、最初の犯罪を隠すために2度目の犯罪に手を染め、次から次へと罪を重ねていく。
アイリーンという人間像をどこまで描けるかが作品の出来の分かれ目だ。
家庭に恵まれず、愛情に飢え、愚かだが情が深いアイリーン。しかし、その愚かさが暴走をはじめると、見ていて居たたまれなくなる。
連続殺人を犯したことに言い訳はきかない。最初の犯罪は正当防衛でも、2度目以降は良心的な市民も殺している。一方、セルビーと暮らすために娼婦をやめて、まともな職業につきたいと、慣れない就職活動をする姿が痛々しい。学歴もコネもなく、娼婦の経験しかない中年女ができる仕事なんて、所詮限られている。その現実がわからず、とにかく行動する女性像が、(同世代としては)妙に心に迫るのだ。
セルビーの人間像も面白い。恵まれた家庭に育つが、同性愛者であることが普通の家庭に収まらせてくれない。しかも、感情的にも経済的にも依存心が強い。アイリーンに「おなかがすいた」と訴えるだけの彼女を見て、「おまえも働け!」と言いたくなった人は多いのではないだろうか。
求めるだけの者と、与え方を知らない者。最初から破綻は見えていた。
映画としては見終えた後の爽快感がないので、アイリーンに少しでも同調できる人しか厳しいかもしれない。
(2005・10・10 宇都宮)
「メリンダとメリンダ」
監督 ウッディ・アレン
出演 ラダ・ミッチェル
クロエ・セヴィニー
キウェテル・イジョフォー
(2004年/アメリカ)
恋愛映画の達人・ウッディ・アレンの最新作。
ニューヨークのレストランで劇作家たちが議論を繰り広げていた。テーマは「人生は喜劇か? それとも悲劇か?」。コメディ作家は喜劇だといい、シリアス作家は悲劇だと主張し、結論が出ない。そこで、彼らは同じ設定から喜劇と悲劇のストーリーを即興で展開した。主人公の名はメリンダ。ニューヨークのとあるマンションで開かれているパーティに、突然やって来る。喜劇編のメリンダは、たちまちパーティのメンバーを魅了し、その家の夫のハートまで掴んでしまう。でも、メリンダはなかなか彼の気持ちに気づかない。一方、悲劇編のメリンダは、離婚した夫との親権争いの真っ只中。精神が不安定な上に、心配する親友が紹介してくれた男に興味がもてない。しかし、ある日出会ったピアニストと恋に落ち、一時は幸せをつかんだかに見えたが・・・
喜劇編と悲劇編が交互に進み、主役のメリンダだけ同じ女優が演じる。ついでに脇も同じキャストにしても面白かったのでは?
通常なら観客は自分をメリンダと重ね、喜劇の人生を選ぶか、それとも悲劇の人生を選ぶか考えながら見ると思うのだが、悲劇の人生がひどすぎて迷う対象にもならない。かといって、参考にするほどの教訓もない。人生楽しいに越したことないではないか。悲劇のメリンダ、いったいなにやってるわけ?という印象だ。
おそらく人生は悲劇でも喜劇でもない。運のいい人悪い人は確かに存在するが、本人がどう感じるかだけの問題。ウッディ・アレンもそんなことは百も承知でこの映画を作り、ドラマづくりのメソッドを楽しんでいるだけに思えるのだが。
(2005・08・18 宇都宮)
「マスター・アンド・コマンダー」
監督 ピーター・ウィアー
出演 ラッセル・クロウ
ポール・ベタニー
マックス・バーキス
(2003年/アメリカ)
1805年、イギリス海軍の帆船サプライズ号は、祖国を遠く離れた洋上で宿敵フランスのアケロン号と闘い続けていた。サプライズ号を率いるのは、伝説の船長ジャック・オーブリー(ラッセル・クロウ)。乗組員はみなオーブリーの意志と判断を信じ、満身創痍の船で太平洋上の決戦に挑む。
何ヶ月も何年もかけて大洋を航海する船は、言うなればそれだけでひとつの国のようなもの。船長はすべての方針を決定し、乗組員の命を守り、任務を遂行する絶対的責任者だ。戦いに勝利すれば乗組員の賞賛の視線を集め、部下の死に面したときは悲しみを抑え、黙って孤独に耐える。そうしたリーダーシップの塊であるオーブリー船長を、R・クロウが堂々と演じている。
船内の造りといい、船上での生活習慣といい、おそらく綿密な時代考証に基づいて作られたのだろう、ディテールまで丁寧に描かれてリアル。特に驚かされるのは、少年仕官候補生の存在。英国軍人を養成するための慣習とはいえ、12歳の男の子が戦闘の真っ只中におり、結果として命や片腕をなくすのは、現代の私たちには過酷に見える。しかし、それを当然にようにサラリと描いたことで、より史実に近いと思わせる。
アケロン号との戦闘シーンもよくできているし、重厚なつくりの作品なのだが、全体に盛り上がりに欠けるのが惜しい。特にラストは、ここからがストーリーの始まりなのではないかと思わせ、少々不完全燃焼だ。
脇役では船医役のポール・ベタニーがいい。「ビューティフル・マインド」でもR・クロウと組んでいたが、役へのハマリ切り方がどちらも見事だった。
(2004・11・21 宇都宮)
「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」
監督 ジョエル・ズウィック
出演 ニア・ヴァルダロス
ジョン・コーベット
マイケル・コンスタンティン
(2003年/アメリカ)
ニューヨークに住むギリシア系移民の娘トゥーラは、30歳過ぎても恋人もおらず、親が経営するレストランを手伝うだけの張り合いのない毎日を過ごしていた。ところがある日、レストランに客としてやってきた男性を見てひと目惚れ。自分を磨くべくオシャレをし、大学のコンピュータ講座に通い、人が変わったように生き生きとしはじめたトゥーラは見事意中の彼と恋に落ちる。ところがいざ結婚となると、ギリシアならではの風習が次から次へと降りかかり・・・
アメリカでは大ヒットした作品だが、日本ではもうひとつだった。地味なテーマに美形がほとんど出演しないキャスティング。いちばん大きな要因は「アメリカのギリシア系移民」という存在が日本人には遠すぎたことか。
それでもトゥーラの心情はとても身近に感じるし、ギリシアという固有の文化を持つ親や親戚たちの姿は私たち日本人の姿とも重なるものがある。なにかにつけて集まる家族・親戚。次から次へと料理を作っては「とにかく食べろ」とすすめる母親たち。少し前まで日本もそうだった。そして30過ぎた娘がいつまでも結婚しないでいることのプレッシャーも。
トゥーラの恋愛が少しうまく行き過ぎる感もあるが、結婚までの行事や障害を少しずつ2人が乗り越えていく様子がほほえましい。洋の東西を問わず、円満な結婚生活は男性側の譲歩が大きくモノを云うことも再確認した。
(2004・3・18 宇都宮)
「メラニーは行く!」
監督 アンディ・テナント
出演 リース・ウィザースプーン
ジョシュ・ルーカス
パトリック・デンプシー
(2002年/アメリカ)
「キューティ・ブロンド」で名を馳せ、ポスト・メグ・ライアンの一番手と言われるリース・ウィザースプーン主演のロマンチック・コメディ。
ニューヨークでデザイナーとして成功したメラニーは、市長の息子からのプロポーズも受け、幸せの絶頂。ところが、メラニーには人に言えない秘密があった。7年前に家出したきりの南部の故郷の町に、夫を残してきたのだ。早速7年ぶりに夫のもとに戻り、離婚を迫るのだが・・・
ニューヨークで最も注目される独身男性を選ぶか、それともアラバマの田舎でサエない生活を送る夫を選ぶか。ストーリーはほぼこの1点に集約されている。ハイスクール在学中に初恋の相手の子を妊娠し、卒業と同時に結婚してしまった過去は若気の至り。南部の田舎娘が競争社会のニューヨークに単身乗り込み、7年間必死で頑張って有望新進デザイナーの地位を掴んだことは立派だし、この7年間の苦労を棒に振ってはいけないと思う。一方、田舎でのんびり暮らす人々の人生を否定する権利は誰にもない。要はその人の価値観の問題だ。
メラニーがどちらを選んだかは完全ネタバレになるので書かない(ストーリーの焦点がそこにしかないことだし)が、夫の描き方がちょっと微妙だ。市長の息子よりもハンサムだし、実は夢も野心も胸に秘めている。メラニーが都会に出てから変わったのかもしれないが、「こんないい男捨てて都会に出るか?」と思わせるし、にもかかわらず都会に出た女性が「今更、昔の夫に心が動くか?」と二律背反した疑問が湧いてくる。
全体に「キューティ・ブロンド」ほど面白くなかったのが残念。でも、これはそもそもの設定にムリがあり、脚本が面白くないせいだ。コメディの表情ができる女優さんにはなかなかお目にかかれないので、リース・ウィザースプーンには今後とも期待しよう。
(2003・10・31 宇都宮)
「モンテ・クリスト伯 〜巌窟王〜」
監督 ケヴィン・レイノルズ
出演 ジム・カヴィーゼル
ガイ・ピアース
リチャード・ハリス
アレクサンドル・デュマの名作「モンテ・クリスト伯」の映画化。
ストーリーは今更説明するまでもないが、無実の罪で地獄の牢獄生活を13年間強いられた青年の復讐物語。親友と信じていた男に罪をなすりつけられ、父親は自殺。婚約者まで奪われた恨みは相手に死を与えるだけでは気がすまない。同じ牢獄生活を味わうよう、周到な復讐劇を練る。
ひとりの男が地獄の底からどうやって立ち上がるのか。裸一貫の脱獄囚から財宝を得て成り上がっていく過程が痛快。150年近く昔の小説だと思うが、サスペンスの基本をしっかり創り上げている点がスゴイ。そもそも死体袋に潜んで脱獄する手口は、デュマが最初に考えたのではないだろうか。現代のように模倣できる小説が周りに山ほどある時代ではなかったろうに、このオリジナリティは稀代の才能としか言いようがない。
映画に限って言えば、主人公がモンテ・クリスト伯と名を変えてパリ社交界に登場するパーティシーンはひとつの見せ場だが、やや貧乏くさくて迫力に欠けた。「宮廷料理人ヴァテール」や「王は踊る」など、フランス歴史物の絢爛豪華なパーティシーンを見慣れたせいか。モンテ・クリストの復讐劇が大仰なのに比べ、ヒロインである元婚約者メルセデスのしたたかさがキツイ。19世紀も現代も、いちばんしたたかなのはやはり女なのか。
「メメント」「タイムマシン」で注目されたガイ・ピアースが悪役で登場しており、サマになっている。このまま悪役道を邁進し、いずれはゲイリー・オールドマンのような味のある悪役俳優になってもらいたい。他に重要なキャラクターではファリア司祭役にリチャード・ハリスが登場し、年齢を感じさせない演技を披露している。
(2003・6・30 宇都宮)
「マイノリティ・リポート」
監督 スティーブン・スピルバーグ
出演 トム・クルーズ
コリン・ファレル
マックス・フォン・シドー
(2002年/アメリカ)
2054年のワシントンDC。殺人の完全予知システムにより、アメリカから殺人事件が消えた。予知能力者が事件直前に殺人を予知し、犯罪予防局が殺人を未然に阻止。殺人を犯そうとした容疑者は特殊な刑務所に送られ、廃人同様の余生を強制されるのだ。殺人課の腕利き刑事として捜査に奔走するジョン・アンダートンは、このシステムにほのかな疑問を抱き始めていた。そんなとき、こともあろうに彼自身が殺人犯だと予知される。「なぜ自分が・・・?」納得できないアンダートンは犯罪予防局に単身立ち向かうが・・・
この映画の公開当初、スピルバーグ監督の最近の作品に「往年のキレがない」と嘆く評論を読んだ。この作品もいくつかの謎が残されたまま終わってしまう。そもそも、予知だけを根拠にまだ犯してもいない殺人の犯人にされたら? 誰だって「殺人なんか犯してない!」と叫ぶだろうし、廃人同様の終身刑務所に送り込まれることにも納得できないだろう。原作はフィリップ・K・ディックの短編SFだそうだが、脚色の段階でかなり肉付けされているはず。にもかかわらずシステムの是非といい、予知能力者の扱われ方といい、設定そのものに最初からかなりムリがあり、作品中で消化しきれていない。
しかし、細かい部分にこだわらず、SFの醍醐味を堪能するには決して悪い作品ではない。2054年という時代設定のせいか、科学の先端をいく犯罪予防局と、古色蒼然とした郊外の住まいとの対比も面白い。最新鋭テクノロジーを使いこなす者もいれば、昔ながらの生活を続けている者もいる。実際、私たちが今見ている21世紀の世界は、鉄腕アトムで描かれた世界とは違っていた。21世紀になっても私たちは満員の通勤電車に揺られて会社に向かい、畳の上で生活している。この調子でいけば、2054年もきっと畳の上でゴロ寝しているのだろう。こんな具合にSFにノスタルジーを感じることができるのも、21世紀ならではかもしれない。
(2003・6・26 宇都宮)
「模倣犯」
監督 森田芳光
出演 中居正広
藤井隆
山崎努
(2002年/日本)
宮部みゆき原作のベストセラーの映画化。
原作を読んでないので対比ができないのだが、一見無関係に見えるいくつかの事件が、やがてひとつの流れになっていく過程は、宮部みゆきさんの筆致にかかればさぞワクワクする展開だったろうと推測する。ところが残念なことに、映画では連続殺人を引き起こす犯人の深層心理に迫れていない。犯人像は若くてリッチで頭のキレる経営コンサルタントという設定なのだが、これでは現実離れしすぎて感情移入できない。やっぱり中居クンでは役不足だったのでは?
「模倣犯」であるか否かにこだわる犯人のプライドに着目した点は面白いが、やはり己れの欲望を満たした末に悠々と逃げ去るハンニバル・レクター博士のような人物の方がカッコいい。警察に捕まったり命を落としたりしては、プライド高き計画殺人もただの茶番になってしまう。
どうも日本人が連続殺人を描くと、被害者への哀悼の気持ちが先走り、湿っぽさばかりが目立ってしまう。レクター博士のような悪役は日本では登場しにくいのかもしれない。
(2003・2・19 宇都宮)
「息子の部屋」
監督 ナンニ・モレッティ
出演 ナンニ・モレッティ
ラウラ・モランテ
(2002年/イタリア)
2001年度カンヌ映画祭パルムドール受賞作品。
裕福な精神科医ジョヴァンニは、妻と娘、息子の4人家族で平和に過ごしていた。ところがある日突然、息子のアンドレアを水難事故で亡くしてしまう。息子を失った空虚感を埋めようがなく、仕事も辞めてしまうジョヴァンニだが、癒しは意外な方向から訪れた・・・
偏見かもしれないが、イタリア映画らしくないイタリア映画だ。ピエトロ・ジェルミ、フェリーニからトルナトーレに至るまで、私が知っているイタリア映画には独特の色がある。人々はみんなお喋りで女好きだし、住んでいる家も雑然とした下町。隣家の会話まで聞こえてきそうな距離感の中、人々は笑い、泣き、食べ、愛し合う。
ところが、この作品に登場するのはジェノバに住む精神科医一家。インテリで物静か、感情は常に抑え気味で、ムダな会話も少ない。住んでいる家もモダンだし、家の中はいつも美しく片付いている。およそイタリア映画らしくない。でも、イタリアの別の一面を見せられたことで、イタリアを旅したい気持ちがまたムクムクと頭をもたげてきた。
子どもを亡くすという人生最大の悲しみをいかにして乗り越えるか。万国共通の悲しみだが、生活苦に追われる必要のない先進国だけに余計悲しみに溺れてしまう構図は大いにあり得る話だと思う。父親を主人公にしたのは秀逸だが、淡々と描きすぎて日本人の琴線からやや外れてしまった感があり、受け入れにくい作品になってしまった。
(2003・2・10 宇都宮)
「マジェスティック」
監督 フランク・ダラボン
出演 ジム・キャリー
マーティン・ランドー
ローリー・ホールデン
(2002年/アメリカ)
1951年のハリウッド。新進脚本家のピーターは、これからというときにアカ狩りに遭い、嵐の中を車で逃避行する。その途中、ピーターの乗った車は増水した川に転落。彼は小さな海辺の町ローソンに流れ着いたが、すべての記憶を失っていた。ところが、ローソンの人々は彼の顔を見て、戦争に行ったまま帰らない青年ルークだと思い込む。父親の映画館主や美しい婚約者ですらルークと信じて疑わず、ピーター自身も町に溶け込み、ルークとしての人生を歩きはじめるが・・・
「ショーシャンクの空へ」「グリーンマイル」に続く、スティーブン・キング原作の3部作。・・・と聞けば、前2作が感動的な内容だっただけに期待が膨らんでしまう。結論から言うと、前2作に比べるとどうもパンチが弱い。ピーター自身がいつ記憶を取り戻すのか、記憶を取り戻した後、彼はどんな行動をとるのかが興味の行方なのだが、そのあたりはさすがに感動的に、しかし抑えた表現で描いている。
戦争で多くの若者を失った田舎町。その社交の中心となる映画館を老いた父親と復興させ、町に活気を取り戻させた若者。ハリウッドの脚本家という華やかな虚業との対比も効いている。ストーリーにはかなり無理があるが、ファンタジック3部作という位置づけならそれも許される範囲だと思う。
それにしてもハリウッド映画で描かれる脚本家というのは、プロデューサーに振り回され、作品を否定され続けた挙句、責任だけ取らされるソンな役回りが多い。「追憶」のロバート・レッドフォードがそうだったし、「リービング・ラスベガス」のニコラス・ケイジなんて悲惨の極みだった。打たれ強くないとできないのが脚本家だが、ハリウッドでは消費のスピードも早そうだ。
(2003・2・10 宇都宮)
「メン・イン・ブラック2」
監督 バリー・ソネンフェルド
出演 トミー・リー・ジョーンズ
ウィル・スミス
ララ・フリン・ボイル
(2002年/アメリカ)
あの2人が帰ってきた!――前作を見た人なら、このコピーとコスチュームだけで理解できるSFXアクションコメディといえば、「メン・イン・ブラック(MIB)」。
この地球上には、実はさまざまなエイリアンが暮らしている。エイリアンたちが巻き起こす騒動を、人間たちにそうと気づかせずに取り締まる特殊機関、それがメン・イン・ブラック。今度の敵は下着モデルの格好をした超セクシーエイリアン。彼女にMIBの本部を敵に乗っ取られたエージェントJ(ウィル・スミス)は、引退した元相棒K(トミー・リー・ジョーンズ)に助けを求めるが、Kは引退時にMIB時代の記憶を全て消されていた・・・
前作ではMIBという奇抜な発想と、次から次へと登場する変テコなエイリアンが楽しめた。しかし、パート2ともなると前作より過激なエイリアンや発想が必要になり、かえって現実味(?)をなくし荒唐無稽さが増してしまった。ニューヨークをところ狭しとエイリアンが暴れ回った後で、何事もなかったかのように日常生活が始まるのも無理がある。まだ、エイリアンの車中出産を助けていた前作の方が生活への密着感があった。
あっという間に設定が過激化し、続けて笑いを取りづらくなるのはコメディの宿命か。にしても、この手のコメディを金をかけて創ってしまうハリウッドの守備範囲の広さが羨ましい。
「ツイン・ピークス」で美少女ドナを演じていたララ・フリン・ボイルが下着姿でエイリアンを演じているが、彼女もちょっと老けてきた。
(2003・1・3 宇都宮)
「耳に残るは君の歌声」
監督 サリー・ポッター
出演 クリスティーナ・リッチ
ケイト・ブランシェット
ジョニー・デップ
(2001年/イギリス・フランス)
1927年、ロシアの寒村で貧しいながらも父と幸せに暮らしていたユダヤ人の少女フィゲレ。父がアメリカに出稼ぎに行った後、村は迫害を受けて全焼。フィゲレはアメリカ行きの船にかろうじて乗り込むが、着いた先はイギリスだった。里親に引き取られた少女は、やがて歌の才能を認められ、パリへと旅立つ。パリのステージでコーラス歌手として働き、アメリカに渡って父を探す金を貯めるためだった。やがてナチス・ドイツとの戦争が始まり、フィゲレにとってパリも安全な場所ではなくなり・・・
ロシア→ロンドン→パリ→アメリカと、運命の波に翻弄されながら生きたひとりのユダヤ人少女の半生は波乱万丈。言葉の通じない国で本名とは違う名前を与えられ、かろうじて生きてきたら、この主人公のように笑顔のない女性になってしまうのもムリはない。「ショコラ」に続きジプシー青年役のジョニー・デップも、影を背負った役どころ。しかし、ふたりの恋愛はまたしても運命によって引き裂かれてしまう。
ジョン・タトゥーロもオペラ歌手役でいい味を出しており、地味な作品の割にはアッと驚くオールスターキャスト。特にケイト・ブランシェットがいい! 相変わらずのバケっぷりで、すみずみまでとにかくウマイ。
内容が内容なので、ストーリー運びは速いのだが、どうも節々に説明不足の感が否めない。音楽を絡ませながら、少ないセリフで淡々と描く意図は見えるのだが、物語描写に起伏が少な過ぎてラストもあっさり終わってしまう。役者の力に比べて演出の力不足を感じてしまい、つくづくもったいない作品だと思う。
(2002・11・26 宇都宮)
「マリー・アントワネットの首飾り」
監督 チャールズ・シャイア
出演 ヒラリー・スワンク
ジョナサン・ブライス
サイモン・ベイカー
(2002年/アメリカ)
フランス大革命前夜、ルイ16世の宮廷を揺るがした一大スキャンダル事件を描いた作品。
かつてはフランス国王を輩出した名門・ヴァロア家のひとり娘として生まれたジャンヌは、生家を再興したい一念で陰謀渦巻く宮廷社会に飛び込んだ。しかし、普通の手段では家名を取り戻すことはできないと悟り、宮廷ジゴロのレトーとともに、次期宰相の座を狙うロアン枢機卿に近づく。そしてロアン枢機卿が王妃マリー・アントワネットに恋心を抱いていることを知ったジャンヌは、世紀の秘宝ともいえる首飾りを王妃に贈るよう勧めるのだが…
詳しい内容は知らないが、「首飾り事件」の話は読んだことがある(そういえば、『ベルばら』の中でも描かれていた)。色と欲にまみれたスキャンダル事件は民衆のフランス宮廷への不満を増幅させ、やがて大革命へとつながった。
詐欺の手口には「こんなので本当に騙されるの?」と半信半疑になるが、テレビも電話もメールもない時代のこと。すばやく確認する手段がない分、一度心を許せば、相手を信じるほかなかったのかもしれない。が……それにしても、騙されたロアン枢機卿はオメデタすぎる。ジャンヌの計画も度胸はいいが穴だらけだし、破綻は目に見えている。これではたとえヴァロア家の館を取り戻したところで、生涯無事に過ごせるとはとても思えない。しかし、これが実際にあった話なのだから、事実は小説より奇なりとしか云いようがない。
主演のヒラリー・スワンクは「ボーイズ・ドント・クライ」で性同一性障害の女性、「ギフト」でDVに悩む妻役を熱演していたが、ここでは没落貴族の娘を演じて見事なバケっぷりだ。美人ではないが、目に力がある。次回作はどんなふうにバケてくれるのか今から楽しみだ。
(2002・7・4 宇都宮)
「ムーランルージュ」
監督 バズ・ラーマン
出演 ニコール・キッドマン
ユアン・マクレガー
(2001年/アメリカ)
パリを舞台に鬼才バズ・ラーマンが作り上げたミュージカル。ディカプリオ主演「ロミオとジュリエット」の監督だけあって、ひとクセもふたクセもある演出だ。かなり好き嫌いが分かれる作品だと思うので、「ロミオとジュリエット」が面白くなかった人にはオススメできない。
ミュージカルのご多聞に漏れず、ストーリーはごく単純。19世紀最後の年、作家をめざしてパリにやって来た若者は「ムーランルージュ」の花形ダンサーと出会い、恋に落ちる。若者は彼女のために脚本を書くが、ダンサーの夢は女優。折りしも、ある男爵が彼女を見初めて資金援助を申し出てくれ、夢に一歩近づいたかに見えたが…
愛はあるが金はない。金はあるが愛はない。そんな2人の男性のどちらを選ぶか、が葛藤なのだが、ストーリーはほぼお約束どおりに展開する。見どころは古いのか新しいのかよくわからないバズ・ラーマン演出と絢爛豪華なショーのシーン、それに主演2人の歌のシーンか。ニコール・キッドマン、ユアン・マクレガーとも実際に本人が歌っているらしいが、特にユアン・マクレガーの歌のうまさにビックリする。豊かな声量と深みのある声で、突然「サウンド・オブ・ミュージック」を歌い出すシーンは新鮮な驚きだ。
(2002・6・27 宇都宮)
「メメント」
監督 クリストファー・ノーラン
出演 ガイ・ピアース
キャリー=アン・モス
(2002年/アメリカ)
妻をレイプされ殺されたことが原因で脳に損傷を負った男は、事件以前の記憶はあるものの事件後は10分前のことすら記憶できない。自分が泊まっているモーテル、10分前に会った相手、会話の内容…すべて忘れてしまうのに、彼は妻を殺害した犯人をひとりで追い、復讐の機会を狙う。重要な相手と会ったときはポラロイド写真を撮り、メモを書く。さらに重要な情報は自らの身体にタトゥーを入れて、忘却を防ぐ。そんな血のにじむような努力の末に、ついに犯人を追い詰めたように見えたが…
朝、ベッドの上で目覚めた主人公には、今自分がどこにいるのか、なにをしているのかわからない。わかっているのは妻を殺した犯人を追い詰めねばならないことだけ。記憶がないから、部屋中に置かれたメモと写真、全身のタトゥーだけが頼りだ。
ストーリーもそうだが、構成が面白いので注目だ。まず、冒頭シーンで主人公は犯人に復讐を果たす。そして、どのようにして彼が犯人を追い詰めるに至ったかが、時間を遡るカタチで説明されていく。次々に現れる登場人物はみな彼に親しげだが、彼にとっては敵か味方かわからない。時間を遡るにつれ、謎が少しずつ解かれていくのだが、この時間を遡る際の場面転換がむずかしいところ。そのあたりがうまく処理されており、監督の腕が感じられる。
斬新なストーリーと構成、そして衝撃のラストシーン…映画好きにはオススメの作品だ。
(2002・6・27 宇都宮)
「みんなのいえ」
監督 三谷幸喜
出演 唐沢寿明
田中邦衛
田中直樹
(2001年/日本)
ある夫婦の家づくりの軌跡を追ったコメディ。
脚本家の夫(田中直樹)と教師の妻(八木亜希子)は仲のいい夫婦。オシャレな家を建てたいと新進の店舗デザイナー(唐沢寿明)に設計を頼んだはいいが、実際に家を建てるのは大工である妻の父(田中邦衛)。斬新な発想を次々に繰り出すデザイナーと職人気質の大工は当然衝突を繰り返し、2人の間に挟まれた夫婦は右往左往する始末。しまいに、自分たちの家を好きなように変えられてしまい…
この物語は、作者の三谷幸喜自身が家を建てたときの経験に基づいて書いたという。そのせいか、ストーリー自体はどこにでもある話で目新しいものはなにもないが、脇を固めるサブキャラが妙にリアルだ(特に妻の姉の夫)。
多くの日本人にとって、理想の家づくりは大きな夢のひとつ。それを作り手の都合で、勝手に変えられるのだからたまったものではない。「デザイナー」「大工」とカタカナと漢字の違いはあっても、どちらもモノを創造するアーティスト。そのアーティストの主義主張に振り回される一般人の姿が、作品を通じてのいちばんの面白さか。にしても、私の目には夫婦に代表される一般人こそフシギな生き物に写った。なにもムリして知り合いのデザイナーや大工に頼まなくてもいいではないか。大金を払うのは自分たちなんだから、もっとエラソーにしていいではないか。「良識ある社会人」であろうとするために費やす神経と、よくわからないバランス感覚。こっちの方がよっぽど妙だ。
(2002・3・28 宇都宮)
「マレーナ」
監督 ジュゼッペ・トルナトーレ
出演 モニカ・ベルッチ
ジュゼッペ・スルファーロ
(2001年/イタリア・アメリカ)
第2次大戦下のシチリア島。町いちばんの美女マレーナは少年たちや男たちの憧れの的。しかし、マレーナの夫の戦死の報が届き、事態は急変する。生活に困るマレーナに、ありとあらゆる男たちが群がり、女たちは嫉妬と軽蔑の目を向ける。やがてマレーナは娼婦として生きる道を選ぶのだが…
主人公の12歳の少年の目を通して描かれるため、マレーナ自身の人間像には迫りきれていいない印象を受ける。恋する少年の目から見れば、マレーナは恋愛や情欲の対象であって、彼女の家族や仕事や人生観を描くにはムリがある。反面、主人公が少年から大人の男へと成長する過程の描写はみずみずしく、このあたりはトルナトーレ監督の独壇場だろう。しかも「初恋」はトルナトーレの作品に通じるキーワード。「シネパラ」も「海の上のピアニスト」もそうだった。「どんなに恋を重ねても、少年の日の初恋以上にひとりの女性を愛したことはない」というコンセプトに貫かれている。
それにしても、ヒロインを演じたモニカ・ベルッチの美しいこと! 「イタリアの宝石」と呼ばれる当代随一の美人女優だが、トルナトーレの要望でセックスアピールを高めるために必死で太ったらしい。おかげで胸もお尻もすごい肉づきだったが、どうして男はああいう体型が好きなのか? グラマーでなくても彼女が充分人を振り向かせる美貌であることは保証する。
最後になったが、エンリコ・モリコーネの音楽は相変わらず素晴らしい。トルナトーレの映像に、これ以上お似合いの音楽は世界中捜しても見つかりそうにない。
(2001・12・28 宇都宮)
「M:I-2」
監督 ジョン・ウー
出演 トム・クルーズ
ダグレイ・スコット
サンディ・ニュートン
(2000年/アメリカ)
わかっちゃいたけど、まさにT・クルーズの、T・クルーズによる、T・クルーズのための映画である。製作にもかかわり、スタント場面もほとんど自らこなすスーパーマンぶりで、いやはやサワヤカな笑顔が目にまぶしい。
前作もおもしろかったが、今回のパート2は監督に売れっ子のジョン・ウーを迎え、アクションシーンがますますスリリングになった。アクションだけでは飽きてしまうのでスゴ腕女泥棒との恋愛もストーリーにからめ、T・クルーズは恋する男のせつなさまで演技してみせてくれる。そのカッコよさとハンサムぶりに、みんな画面の前でひれ伏そう。
個人的にはキレ者の悪役を演じたD・スコットがよかった。「目で演技できる役者」とこの作品の脚本家が語っていたが、まさにそのとおり。地味だが、どこか必ず印象に残る役者さんだ。アンソニー・ホプキンスもT・クルーズのボス役で出演している。
アメリカ→スペイン→オーストラリアと世界をまたにかける任務、アクションに次ぐアクション、カーチェイス、007風小道具とスパイ映画のお約束をすべて満たした大作だが、「昔の『スパイ大作戦』はもっと渋かった…」というオールドファンの声も聞こえてきそうだ。
ちなみに、ビデオに収録されている「メイキング・オブ・M:I-2」も、T・クルーズの、T・クルーズによる、T・クルーズのためのメイキングである。覚悟して見るように。
(2001・8・10 宇都宮)
「マルコヴィッチの穴」
監督 スパイク・ジョーンズ
出演 ジョン・キューザック
キャメロン・ディアス
ジョン・マルコヴィッチ
(2000年/アメリカ)
マルコヴィッチと云われても、私にはその代表作がパッと思い浮かばない。なのに、スクリーンいっぱいに広がるあの存在感、あの顔、あの目つき! フツーの2枚目ならすぐに忘れてしまうが、マルコヴィッチは1回見たら忘れない、まさに怪優。この作品の中では実名で登場し、自らを怪演している。
売れない人形使いクレイグは、生活のためにニューヨークの古いオフィスビルの7と1/2階にある会社に就職する。ある日、彼は書類棚の裏に人ひとり通れる小さな穴を発見する。驚いたことに、それは15分間だけマルコヴィッチの頭の中に入れる穴だった。あまりのシュアーな体験に心奪われたクレイグは、この穴を使ってひと儲け企むが…
設定はナンセンスだが、よくできたコメディだ。パッとしない芸術家クレイグをジョン・キューザックが、そのダサい妻をキャメロン・ディアスが熱演し、恥ずかしながら私は最後まで主人公の妻がキャメロン・ディアスだと気づかなかった。頭の中をクレイグに乗っ取られたマルコヴィッチが人形そのものの動きを見せるシーンも楽しかったし、人形使いになって名声をほしいままにするシーンも楽しかった。そう、主人公が「人形使い」という設定がまず正解。ナンセンスな内容を、しっかり練った構成とたしかな人物設定で見せたおかげか、2000年のアカデミー賞オリジナル脚本賞にノミネートされていた。
(2001・5・26 宇都宮)
「マグノリア」
監督 ポール・トーマス・アンダーソン
出演 ジェレミー・ブラックマン
トム・クルーズ
(2000年/アメリカ)
舞台はロサンゼルス。
死に瀕したTVプロデューサー、若く美しいその後妻、看護士、セックス教の教祖、まじめで信心深い警官、TVのクイズ番組の司会者とその妻、その娘、天才クイズ少年とそのステージパパ、かつて天才クイズ少年だったサエない中年男…と主な登場人物を列挙しただけで十数人。彼らが繰り広げるたった1日の人間模様を、丁寧に綴った物語。
トム・クルーズがアカデミー助演(!)男優賞にノミネートされたが、いったい誰が主人公なのか、答えが分かれるところだ。
この手の作品にありがちなのは、上映時間がやたら長くなること(エピソードが多いから当たり前)。10人以上の登場人物の中で、印象に残る人物とそうでない人物の差が激しくなること(アルトマン監督の「ショート・カッツ」がそうだった)。
この作品も3時間の上映時間はたしかに長いが、登場人物がみな印象に残ったのは秀逸だった。監督の描写のうまさ、役者の達者な演技、エピソードの切れ味の鋭さなど、理由はいろいろあるだろうが。
風呂敷を広げまくったストーリーで大変なのは、ラストをどうまとめるか。タランティーノの「パルプ・フィクション」はラストシーンをファーストシーンにつなげることで解決したが、この作品はある1日を同時進行しているから、それもできない。
そこで考えたのが○○現象を利用する手。にしても、あのラストは人を食ってますぞ。
(2001.2.12 宇都宮)
「ミッション・トゥ・マーズ」
監督 ブライアン・デ・パルマ
出演 ゲイリー・シニーズ
ティム・ロビンス
(2000年/アメリカ)
「デ・パルマがSF?」と最初は思ったが、腕のいい監督はどんなジャンルで撮ってもそれなりの作品に仕上げてくる。この作品を、かの名作「2001年宇宙の旅」と比べる評論も見かけたが、なるほどテーマが同じなのだ。モノリスがここでは○○になっているだけで。
火星ほど古くから多くのSFの舞台となった星はない。氷が存在する可能性があるというNASAの報告が最近もあったし、数年前南極で発見された火星由来の隕石にアミノ酸らしきものが付着していたことも記憶に新しい。生命が存在する(あるいは存在した)可能性が、いっそう人々の夢をかきたてるのだろう。
主演のゲイリー・シニーズはこれまでいろんな作品で見かけたが、この映画で独特の味わいを再認識した。以前、「フィフス・エレメント」で今更ながらゲイリー・オールドマンのセクシーさに気づき、ガクゼンとしたことがあったが、SF映画というのは見慣れているはずの俳優さんの良さを観客に再認識させる効果があるのかもしれない。
ところで、SF映画の美術さんに注文がひとつ。いろんなSF映画を観てきたが、人類より美しい宇宙人が出てこないのはナゼ?(特に「スター・ウォーズ」シリーズの宇宙人たちは醜悪そのもの) 「人類を超える美しさが人類には想像できない」なんて云わないで、死ぬまでに一度美しいエイリアンを見せてほしい。
(2000・1・14 宇都宮)